おバカな国民と無責任なメディア—「ロックダウン」騒ぎで露わになったこの国の醜態
買いだめに走るバカ
本日(3月25日)、小池百合子都知事が緊急会見し「週末は不要不急の外出を控えて」と発言した。その途端、スーパーが混み始めた。知事は「ロックダウンしなくて済むようにしばらくは自重してください」というつもりだったのだろうが、すでに朝から「ロックダウン」という言葉のほうが先行して一人歩きしていたから、「都民が買いだめに走るのは自己防衛としては当然の行動だ」という見方もあろうが、なんだか無性に腹が立った。
こちらはパスタと人参を買いにいったのだが、近所の複数のスーパーのパスタ売り場にはほとんど何も残っていなかった。なぜか人参までない。おまけに肉類のケースは空っぽ、魚はまだ残っていたが、保存がきく品から売れているふうだった。この分だと明日は、保存可能なあらゆる食品と冷凍可能なあらゆる食品(無論冷凍食品も)が品薄になる。来月になれば、世界貿易の停滞を見越して行動する連中まで間違いなく出てくるだろうから、食品だけでなくあらゆる輸入商品、国際分業商品が品薄になり、いくら規制してもオークションは大繁盛、にわか成金も生まれるかもしれない。
嫌だなあと思う。ゲーム理論的に買いだめは合理的な行動だが、いまだに品薄なマスク、トイレットペーパー、ティッシュペーパーの件で皆あれだけ嫌な思いをしてきたではないか。「共助のために節度を守って行動する」ことがいかに大事か、トイレに入るたびに痛感したんじゃないか?自分の安心は他人の不安だということに気づかない連中がいかに多いことか。
東日本大震災の時、被害のない地域、被害の少ない地域から多くのボランティアが駆けつけ、被災者に手を差し伸べ、「絆」とか「愛」とかいった、聴いてるほうが恥ずかしくなるような言葉を平気で口にした。多くの「美談」が生まれた。だが、今回のコロナウイルスの一件でよくわかった。あれはみんな嘘だったのである。美談は自分ための美談だった。自分が窮していなければ、美談づくりのために人助けに精を出すが、自分が窮してしまえば「生き残り」をかけて他人を蹴落とすのである。自分が窮すれば人が窮してもいいと思っているのだ。ぼくは死刑反対論者だが、こういうバカは死刑にしてもいいと思う。こまわり君、拳銃をぶっ放してくれ。
場当たり的で無責任なメディア
そもそもメディアの姿勢からして最初から怪しいと思っていた。多くのメディアは「政府の政策が不十分だ」「場当たり的だ」とさんざん非難しておきながら、感染者数が激増しない期間がしばらく続いたら、「日本は意外と上手くやってるじゃん」的な油断に満ちた報道姿勢に転じ、イタリアやスペインの惨状を「ダメだね、あんたたちは」といわんばかりの、優越感丸出しのコメントで評した。まだ事態は始まったばかりなのに、「日本はもうコロナを凌いだ」と錯覚させるような報道ばかりだった。
メディアの罪はそれだけではない。桜が開花したら、「大グループでの花見はダメだが、小グループでの花見はいいんじゃない」という雰囲気を作りあげ、テレビは「プライベート花見特集」を平気でやっている。そのおかげで「ご近所の桜を少人数で見物するならをOK」という楽観が支配的になり、お彼岸の連休は東京だけでおそらく百万人以上の花見客が出現した。神奈川県民や埼玉県民にとって東京は「ご近所」だから、新宿御苑あたりまで繰りだした連中がいかに多かったことか。その上、花見帰りに新宿三丁目あたりで小宴会を決めこんだ連中も多かった。それこそ場当たり的な報道姿勢の見事な「成果」だ。
ところが、おバカな国民と無責任なメディアの姿勢に危機感を持った(?)小池都知事が「ロックダウン」と言いだした途端、都民もメディアも青ざめてしまった。「やべえ、うかれすぎた」というわけだ。日本のどこかでオーバーシュートが起こることなど、メディアは当然予想していなければならない。その「どこか」が東京以外にないことも十分想定内である。国民に自己抑制を訴えるべきときに、メディアは花見を奨励していたのだからもう始末に負えない。
あるニュース番組に至っては、ロックダウンに恐れをなしてパリ在住の辻仁成にコメントを求め、「日本は一体どうすればいいんでしょうか」などと素っ頓狂なことを訊ねている。こうなるともはや「バカにつける薬はない」という言葉を思い出すだけだ。どうせ無責任な報道をするなら、「トイレットペーパーを買いだめすると死刑になる」とか「スーパーでワゴンいっぱい買い物しているそこのあなた、映像を全国に流しますよ」ぐらいの無責任ぶりを発揮してほしいものだ。
呆れることばかりのコロナ騒ぎ。この国にはもう見切りを付けたくなったが、今や地球上どこに行ってもコロナだらけだ。おまけに国外脱出の手段も乏しい。しょうがないから俺は我慢する。みんなも我慢してくれよ。ホント、頼むぜ。