「首里城正殿は沖縄のアイデンティティ」に感ずる違和感

小中学校時代は山梨県甲府市で過ごした。甲府は城下町だが城は二つある。武田信玄が居を構えた躑躅(つつじ)が﨑の館と徳川幕府が築いた甲府城(舞鶴城)である。

「人は石垣、人は城」と考えた信玄は天守閣や立派な櫓は造らなかった。館跡には小ぶりの濠とわずかな石垣が残るだけで、信玄などを祀る武田神社の社殿はあるが、武田家の栄華を伝えるものは何もない。徳川家が築城した甲府城には天守閣はなく、本丸御殿などはあったものの、江戸時代には火災で失われて、残った建物も明治期に取り壊された。比較的最近になって大手門など一部が復元され、「歴史公園」となっているが、市民の愛着はない。その代わり、市民のあいだでの武田信玄への愛着は今でも根強い。城を造らなかったこと、城が残されていないことを誇りに思う人は多い。

そんな甲府と対照的だが、首里城を有する那覇・首里の人たちを羨ましく思うことはある。首里城はれっきとした歴史遺産だ。が、昨年来の首里城をめぐる議論には異議を申し立てたくなる。

首里城正殿が復元されたときの賛否両論は今でも憶えている。復元に反対する人たちは、王朝の支配と搾取の象徴など要らないといい、そんな金があるなら貧困対策・社会福祉対策に使えと主張した者もいる。ぼくは正殿復元がダメだとは思わなかったが、戦後生まれが人口の大半を占める1990年代の復元は「観光資源」「歴史公園」以上の価値はないだろうと思っていた。

ところが、昨年、正殿が焼失したら、県民の多くが「首里城は沖縄県民のアイデンティティだ」「アイデンティティが失われた」と口にするようになった。かつて復元に反対していた人たちまで一様に「アイデンティティ」を強調した。びっくりした。

正殿焼失前も焼失後も、首里城に上ると、石垣で囲まれた城郭の曲線の美しさ、城郭内から見る壮大な風景には感動する。今帰仁、中城、座喜味の城もそうだが、沖縄の城の美しさは、何よりも郭の曲線美であり、そこから見える絶景である。首里城の場合、久高島を抱く太平洋や慶良間諸島を抱く東シナ海の絶景は掛け替えがない。自然と一体になった崇高なアートだ。その美しさは言語を絶するような神聖さを帯びている。城が巨大なウタキ(御嶽)であることを再認識する。正殿はむしろ添え物ではないだろうか。正殿が焼失しても、首里城からは何も失われていないと思う。

それよりも気になるのは、城郭外の荒廃である。先日首里城を訪れたら、比屋武御嶽石門左側の樹木が枯れ果て、御嶽の森が剥きだしになっていた。円覚寺は、しっかりした遺構が残るのに、今も打ち棄てられたままだ。龍譚は以前より美しくなったが、清水あるいは聖水とはいえない澱みが残る。三重城、弁の御嶽、ガーナー森、崇元寺、沖宮、天久宮、末吉宮、御物城(那覇軍港内)などの現状も嘆かわしい。首里カトリック教会の敷地が、識名園と並ぶ王府の名庭園(東苑)、御茶屋御殿跡地であることを知る県民、崎山公園に置かれている石造獅子が沖縄で最も古いシーサーだと知る県民がどれほどいるだろうか。これらは史跡であり聖なる土地だ。首里城や首里城から見える風景と一体である。かつて美しかった首里の街や「浮島の都」だった旧那覇市街(若狭、東町、西町、泊など)の痕跡も次々失われている。

正殿や関連施設の復元も大事だろう。だが、「沖縄県民のアイデンティティが首里城正殿にある」と考える風潮には大きな違和感がある。もっとしっかり歴史を見つめ、歴史とその痕跡を大切にすることこそ、本当のアイデンティティ形成につながる道だ。

首里城の曲線美と慶良間諸島夕景

批評.COM  篠原章
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