花街慕情 白山・円山町篇

hakusan

書評を頼まれて『花街~異空間の都市史』(加藤政洋著・朝日選書)を読んだ。花街や色街について書いた本は少なく、あっても断片的な記録やエッセイばかりだったので、とても勉強になった。各地の花街の生成について、かなり整理された知識を得ることができたと思う(詳しくは2005年10月30日付け朝日新聞書評欄を参照)。

ところで、毎土曜日は白山に校舎のある東洋大学に出講している。土曜日は勤務先の行事や学会も多いし、旅をするにも不都合だから、レギュラーの仕事は入れたくないのだが、請われて断り切れずに昨年から引き受けたものだ。嫌々の仕事ではあったが、白山神社の境内を通って大学の裏門に達する抜け道を歩くのは好きだった。が、路地裏を歩く学生のマナーの悪さを近隣住民が訴えたのだろう、この春から通行を禁じられた。

白山での楽しみを奪われたので、さてどうしたものかと思案していたが、先に挙げた『花街』に、大正・昭和の時代の白山は規模の大きな花街、というより娼妓多数のいる色街だったと綴られていた。ふふふ。やったじゃないか。勤め先にこんなに近いところに旧色街があったとは。

最近は東京の街歩きガイドが多数出版され、白山辺りを取り上げたものも多い。端から目を通してみたが、白山が色街・花街だったとはどこにも書いていない。歴史に培われた文教地区「文京区」だから、そういうものが存在したという事実が覆い隠されているのか?だとすれば歴史の封印である。ま、それは言い過ぎか。おそらく出版に関わった人たちが事実を十分に調べなかったというのが真相だろう。

さて、いよいよ白山探訪。この日は『花街』を持ち歩いていなかったので、旧色街の正確な場所がわからない。「歩いているうちに目的の場所を突き止めることができるはず」と、授業終了後、たらたらと歩き始めた。

最初は「白山上」。経験からいえば、谷のような場所や、 洪水があれば一巻の終わりといったような川沿いの土地に色街が“閉じこめられて”いることが多い。白山上は台地の頂点に近い場所だから、色街があったとは考えにくいが、白山上の交差点から本駒込一丁目方面に斜めに抜ける筋がちょっと魅力的に見えたのでそこを一往復。左右に少々古めの二階屋が並んでいい感 じ。旧色街だったとしてもまったく不思議じゃない。短い筋ながら構えに風格のある寿司屋が三軒、トンカツ屋が二軒。筋半ばに、チキンソテー定食630円というメニューを掲げた喫茶店があったが、その店も昭和40年代半ばな趣で、ついつい引きこまれそうになった。やべぇやべぇ、さっきカキフライ定食を食べたばかりだ。

向丘周辺の路地裏を迷いながら白山上に戻る。途中、天和2(1682)年の大火の出火元といわれる大圓寺があった。井原西鶴『好色五人女』で有名な八百屋お七を供養する「ほうろく地蔵」は、同時の山門近くにある。賑やかな飾りと供物でちょっぴりアジア的。辺りが江戸情緒を留める静謐な寺町であるだけに、ほうろく地蔵はひときわ目立っていた。が、魯山人の関心があるのは、江戸情緒なんかではない。目的はあくまでも色街の痕跡探しだ。

さて、目指す場所が「白山上」になければ、谷の方角、すなわち「白山下」にあったにちがいない。そこで、旧白山通りを白山上から白山下まで下ったら、右手に京華通りというのがあった。東京の華という意味で京華?すわ色街とついつい色めき立ってしまったが、考えたらここには京華学園というのがあったのだ。要するに通学路ということだ。失礼しました。

だが、白山下の交差点から左手方向を見ると……。あるよあるよありますよ。「HAKUSAN STREET」という表示板を掲げた街路灯の連なる町並み。人力車二台が優にすれ違えるくらいの幅の筋が南に向かってまっすぐ延びている。まさにここが目的の場所であると直感した。

白山の三業地(芸者置屋・料理屋・待合い茶屋の三業態がお上公認の上で営業する場所)は明治45年に指定され、売春防止法施行(1958年)の頃まで栄えた花街という。現在は白山一丁目だが、旧地名は小石川区指ヶ谷町。今も地域の小学校は指ヶ谷小学校という。

もともと非公認の私娼窟(明治期は銘酒屋という名称で営業)だったらしいが、この地で料理屋を経営していた秋本鉄五郎が、「指定地」の認定を警視庁にたびたび申請し、足かけ5年でようやく認可されたものだ。認可時の警視総監は安楽兼道。安楽は八千円の報奨金(賄賂)を事後に受け取ったと正史である『白山三業沿革史』に記載されているらしい。今に換算すれば一千万円近い金だ。花街経営とはよほど儲かる商売だったのだろう。例の鳩山一族も秋本の後ろ盾だったというから、彼らに白山三業地の「カネ」が流れていた可能性も否定できない。花街づくりは利権だったのである。

白山は、大正時代における東京風俗界の人気スポットだった。というのも、私娼の置屋を活用しながら花街を“開発”したからである。芸に精進せず、安直に色香を売る芸者を“転び芸者”というが、大正時代、彼女たちは「大正芸者」と呼ばれ、各地からの志願者が後を絶たない状態だったという。そして、大正芸者の一大養成機関がまさにこの白山だった。白山は、実態としてはより色っぽい街・色街であったと見ていいだろう。

秋本鉄五郎、そして息子の平十郎は、大正四(1915) 年に白山三業組合を白山三業株式会社に改組し、以後、麻布や日本橋・葭町(芳町)の花街(再)開発に、白山で培ったノウハウを応用してかなりの成功を収めたという。都市の再開発が、花街・色街を軸に実行されたという経験が今に生かせるかどうかはわからないが、大正・昭和の時期には白山三業株式会社の成功に倣って、各地に似たようなビジネスが普及したはずだ。いってみれば、秋本父子は、風俗業界の拡大再編成のためのビジネスモデルを提示したということになろうか。

指ヶ谷一帯を30分ほど徘徊した。ここから見ると、白山上・あるいは西片の方角はちょっとした丘である。逆に言えば、指ヶ谷周辺は文字通り谷底だ。裏筋に入れば、自転車一台が通るのもやっとという狭い路地に、 住宅が密集しており、大きなマンションはほとんど見あたらない。江戸の町並みというより、大正から昭和にかけての下町情緒が残った町並みというべきか。

メインストリートは、一見すると色街の名残をほとんど留めない普通の商店街だが、歩いてみれば、色街という過去が地面の下から沸々と湧きあがってくるのがわかる。面構えのいい寿司屋、染物屋などが今も暖簾を掲げ、わずかだが往時の色香が漂ってくる。

恥ずかしながら、立ち食い魯山人は、この手の街に佇んでいると脳髄の平安を取り戻すことができる。癒しすら感じてしまう。前世の自分はいったい何者だったのだろう。芸妓に入れあげて身上を失った常連客か、心付けを頼りに暮らすお茶屋の下足番か、はたまた身を落としながらも儚い夢を追いつづける娼妓なのか。あらぬ想像に身を任せるのも、色街巡りの楽しみである。

花街に関心を持ったのは、渋谷に住んだことがきっかけだったように思う。立ち食い魯山人17歳のときだ。

当時の自宅マンションは、国道246に沿って西に歩き、246と旧山手通りが交差する上通りの交差点をちょいと代官山寄りに折れた場所にあったが、渋谷駅方面から排ガスだらけの246沿いを登るのはあまり好きではなかった。そこで少々遠回りにはなったが、道玄坂上の円山町を抜けて、井の頭線の神泉駅近くまで出てから帰ることも多かった。

もちろん、あの辺り一帯は現在と同様ホテル街だったが、当時はラブホテルよりも通称「逆さくらげ」といわれる連れ込み宿のほうが多かったように思う。好奇心の塊だった高校時代の立ち食い魯山人は、後ろめたそうな男女のカップルに出くわす狭い路地を、どきどきしながら通り抜けるのが好きだった。性的な体験は浅かったので、あの路地に足を踏み入れること自体が ちょっとした性的冒険だったのだ。

道玄坂上右手の交番から旧山手通り方面に向かって斜めに抜ける一方通行があるが、その通り沿いに、芸者さんたちの稽古場があった。三業組合の事務所だったのか、芸妓会館のようなものだったのかは忘れたが、午後になると木造二階建てのその建物からしばしば三味の音が聞こえてきた。タイムスリップしたかのような、文字通り異空間にいるかのようなあの感覚が好きだった。

夏の日。日暮の声がうるさいほどだったから盛夏、それも暮色も迫る夕方のことだ。いつものように三味の音が聞こえる稽古場の横を歩いていたら、すっかり装いを整えた20代後半の芸者さんとすれ違った。

その瞬間、彼女は小さな声で「あっ」と叫んだ。声の方角を見たら、草履の鼻緒がとれている。片足立ちしながら、切れた鼻緒になにがしかの細工を施し、彼女はそのまま路地へと消えていった。なんという美しさ。絵に描いたような前近代。茶髪で長髪、ロンドンブーツにラメのTシャツという出で立ちをしていた当時の立ち食い魯山人には、まったく不似合いな体験だったが、今もあのときの感動を忘れることはできない。

女装の男娼も出没するホテル街の路地を抜けると、当時は何軒かの料亭があった。夜ともなれば、料亭の周辺の道路は黒塗りのハイヤーで埋まった。政治家たちの“密談”の場所は、赤坂や新橋の料亭と相場は決まっている。円山町くんだりで“密談”するのはいったいどこの連中だろうと長く訝っていたが、最近になって円山町は警察官僚の裏庭だということを知った。警察が料亭とは思いもつかなかったが、彼らにしてみれば、華やいだ赤坂や新橋ではなく、花街としては二流の円山町に繰りだす分には世間も許してくれる、と思っていたのかもしれない。綱紀にうるさい現在であれば、それがたとえ円山町だとしても国民から非難囂々だろうが、もはや古き良き時代の一齣にすぎない。

maruyama

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket