菊地成孔が怒っている appendix

kikuchiweb

前稿「菊地成孔が怒っている」に対して、反論やアドバイスをいくつか頂戴した。前にも書いたとおり、このテーマに正面から取り組むほどの力も時間も十分じゃないので、いちいちリプライするのは難しい。かといって「逃げてんの?」と思われるのも本意ではないので、若干のメモで補足しておきたい。


MUSIC MAGAZINE (ミュージックマガジン) 2012年 04月号 [雑誌]

1.「菊地成孔はなぜ怒っているのか?」の分析がない

音楽評論家・高橋健太郎さんにそのようなご指摘をいただいた。

菊地さんが怒っている理由については、彼自身のWEB(日記)から推察するほかない。その印象をひとことでいってしまえば、『ミュージック・マガジン』(4月号)が不当な扱いをした、ということに尽きる。評価が低いということなのだ。

いちばんシャクに障ったのは松尾史朗さんのレビュー(DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN『SECOND REPORT FROM IRON MOUNTAIN USA』が対象)であることはご本人も認めている。そして松尾さんが本文で「うんこ」の評価する一方で、6点(10満点)という点をつけたことに、菊地さんは逆に不信感を募らせている。要するになんともちぐはぐだといいたいのだろう。返す刀で編集者の能力に対しても疑問を呈している。

批評とか評価なんてそんなもの、といってしまえば元も子もないので、松尾さんの評価の背景に少しだけ踏み込んでみたい。

ぼく自身は菊地さんを評価している。新作のことはタ イトルぐらいしか知らないが、これまでの活動には最大限の敬意を表したいと思っている。では菊地さんの作品が大好きかといえば、そうではない。ぼくの音楽体験に占める菊地成孔というアーティストの《比率》は小さい。ぼくにとって、日本のロック/ポップの出発点ははっぴいえんどなので、彼らの存在感のほうが圧倒的に大きい。それには世代的な要因など個人的な環境も大いに関係している。評論家といえどもそこから自由ではない。個人的な音楽体験はなにより根深いのだ。

とはいえ、個人的な体験が菊地さんの音楽を貶めてはいけないと思っている。ぼくがレビューを頼まれれば、なぜ菊地さんの音楽が支持されるのか、音楽的な状況から社会的な状況まで考えながら、できるだけ客観的な視点で評価しようとするだろう。それでもなお自分自身の趣向・主観から離れられないこともある。結果としてぼくの書いたレビューには「愛情」が足りなくなるかもしれないが、それもまた避けがたいことだ。もりそばが好きなのに、滅多に食べないガレットを評価せよといわれれば、誰だって愛情とは別次元で評価することになる。レビューを頼まれれば、ガレットのことを調べ、あちこち試食し、そして最後に批評の対象に正面から挑む。大げさなようだが、その程度のことは職業評論家としてあたりまえの対応である。むしろ、過剰な愛情がない分、説得力ある評価を書ける可能性もある。

だが、ガレットは自分の食の歴史にはほとんど関わりを持たないわけだから、ピントのずれたことを書いてしまう怖れもある。自信がなければ、レビューの依頼を最初から引き受けないかもしれないが、もりそばで 培った自分なりの食の基準をガレットに適用してみたいという誘惑も強い。ガレットもそば粉でできているからである。最終的にピントのずれたものが世に出て笑い者になるリスクもあるが、批評する側からいえば、それもまた経験の積み重ねとして受け止めたい。

松尾さんがぼくとまったく同じだということはないだ ろうが、ぼくの経験から解釈すれば、彼なりの客観的な基準に即して「6点」と評価したのではないか、と思える。つまり、菊地さんのキャリアを勘案し、他の アーティストの作品などとも比較した上で、総合的に点数をつけたのである。

ところが、である。本文を読めば一目瞭然だが、松尾さんは菊地さんが嫌いである。理由はいろいろあるだろうが、嫌いなことは否定しようがなく、感情的ですらある。感情を主観と言い換えてもいい。松尾さんの 文章は、デートコースの新作に対する評価なのか、菊地さんのキャラクターやパフォーマンスに対する評価なのかはっきりせず、挑発的な言葉がちりばめられている。意図的なのかもしれないが、松尾さんはデートコースの音楽に対しては6点を与え、菊地さんのパフォーマンスやキャラクターに「ノー」を突きつけたの だ。

主観と客観を織り交ぜた松尾さんのこうしたやり方には批判もあるだろうが、「それもありじゃん」としか言い様がない。

ぼくの流儀とは異なるが、ひょっとしたら、松尾さんのレビューは本質を突いているかもしれない。いや、それは松尾さんを支持するという意味ではない。菊地さんの音楽やパフォーマンスが、論争になるような強 烈な個性を備えていることを実証するようなレビューになっているのだ。前稿にも書いたように、肯定的な評価と否定的な評価が混在することはまったく自然なことである。他方で、菊地さんは松尾さんの挑発に怒り、『ミュージック・マガジン』に対して絶縁状を突きつけたが、「それもまたありじゃん」としか言い様 がない。

2.問題はメディアのあり方ではないのか?

アルテスパブリッシングの鈴木茂さんからのご指摘である。鈴木さんの真意を詳しくうかがっていないが、アーティストのプロモーションと見紛うような記事や報道の多いメディアの実態を問題とされているのだろうか?つまり批評が成り立たないというメディアの現状を検討しなければならないのだろうか?そうだとすれば、そのとおりである。その点は前稿にも書いたつもりだ。

編集者から、「●◎▲▽は好きですか?」という言い方で原稿の依頼があることがある。ぼくは好きか嫌いかいちおう答えるのだが、このとき編集者としては好きであってほしい、という期待がある。そのアーティストが好きなら書いてほしい、嫌いなら仕事はふりたくないという思いである。問題はここから始まっているといえなくはない。太鼓持ち、提灯持ち的記事への入り口である。好きだったら批判はしたくない。ファンもそんな記事は読みたくない。彼らの機嫌を損ねれば雑誌の売上げが落ちる。番組の視聴率や聴取率が落ちる。そんな事態は避けたい。音楽誌や音楽番組がビジネスとして生き残るためには、松尾さんのようなレビューは載せたくない。

編集者がみな同じような思いを抱いているわけではな い。むしろ、論争を呼ぶようなテキストを期待している場合もある。が、多かれ少なかれ、書き手に対して「好きであってほしい」という思いは持っている。メディアの側は、レコード会社などから広告をとれなければ経営が成り立たないと考えているからだ。インタビュー記事などではアーティスト側のチェックが入ることが常態化している。お金を出す側(レコード会社等)も、気に入らない記事があれば、事前チェックの段階でクレームを出すこともある。こうした制約が あっても、工夫次第で批評は成り立つのだが、そのためには文体や構成などに気を遣わなければならないし、書き手の思いを十分に伝えるのは難しくなる。単行本であれば、ポレミックな企画も「あり」だが、まっとうで安定した経営を目指している雑誌からすれば、リスクは犯したくないに決まっているから、結果として太鼓持ち・提灯持ち的記事が満載されることになる。生き残るための闘いだからだ。

だが、と思う。やはりそれは不健全だ。まずいラーメンはまずいと教えてほしい。あるいは、ある条件下では「うまい」が、別の条件下では「まずい」ということをきちんと伝えてほしい。この課題に応えるために、たとえば『ミュージック・マガジン』では、部分的に<クロス・レヴュー>という手法を導入している。一枚のアルバムに対して、複数の評論家・ライターが評価を下す。これはより“公平”で効果的な評価の方法だ。読者は複数の評価から自分にフィットするものを選択すればいい。課題はある。対象がわずか7点 では、多様な音楽ファンすべてをカバーするのは難しい。かといって、これを何十点にも増やすのは物理的に不可能だ。評者のレビューが激しく対立するような結果になることも少ない。評価が大きく割れる作品というのはそもそも多くないのである。

ここから先は前稿の繰り返しになるから、多くは語らない。メディアは肯定的な評価と否定的な評価を混在させるエディットのあり方を工夫すべきだ。書き手は、作品の評価が平易かつ説得的であるよう努めるべきだ。

一方で、ほとんどの音楽ファンが「批評」を求めていないという現状がある。「紹介」すら求めていないのかもしれない。批評も紹介も求められていない、そういう時代になったということなのか。それとも(メ ディアも含めて)批評の側が、(求められるように)変わらなければならないのか、やはり真剣に考える必要があるだろう。

3.「新しさ」を評価の基準にする時代は終わった

某誌編集者の方からのご指摘である。これは直前に書いた「批評の側が変わらなければならない」という問題意識と重なっている。

まずはその前提について考えておかなくちゃならない。音楽市場というものは今もあるが、それは複合的なものになっている。CDの売上げだけが基準ではない。そこが事態を見えにくくしているが、総じていえば市場は縮小する一方だ。業界では回復に期待している人なんかいないはずだ。では、人びとが音楽を求めていないのか、といえばそうではない。音楽に接することを歓びとしている人は今も多い。だが、みなお金は出したくない。音楽に対する支出を最小限に留めようとする。景気が悪いから、とか成長が停滞局面に入っているからとか、いう説明もあるが、そんなのはデマみたいな情報だ。音楽に対する飢餓状態はもはや再生しない。少なくともCD売上げ枚数と楽曲のダウンロード数がトータルで増えることなんて、これから先はまったく望めない。

K-POPやAKBの活躍に活路を見いだそうとする人たちもいる。が、音楽市場の縮小という全体の傾向に歯止めがかかることはない。日本という枠を取り払ってしまえば、つまり日本がダメならアジアがあるさ、アジアがダメなら世界があるさ、というふうにビジネスを展開できる可能性はあるが、国内市場はけっして拡大しない。それは音楽と関わるメディアにとって最大の制約条件だ。

おまけに出版市場も縮小の一途だ。音楽をテーマとする雑誌や書籍は、音楽市場縮小に加えて、出版市場縮小という災いにも見舞われている。ダブルパンチである。もはや専業の音楽評論家・音楽ライターなど数えるほど、多くが兼業評論家・兼業ライターだ。それ自身悪いことではない。音楽業界におもねる動機が薄くなっているからである。音楽業界に嫌われても生き残れる可能性が高い。ところが現状はといえば、「音楽業界におもねる、媚びる」というほどではないにしても、専業のモノ書きが減れば減るほど、批評的な要素 は後退してしまっているように見える。これはいったいどういうことなのか。

実はここで前項の最後に書いた「振り出し」に戻ってしまう。「批評」が求められていないのだ。多くの読者が、批評なんてお金を出してまで読みたくないのである。AMAZONやCD販売のサイトにある「カスタマーレビュー」とか「口コミ」で十分だと思っている。ネット上でいくらでも「感想」を拾うことだってできる。それも、けっこうタメになったりする。わざわざ追加的な代金を払わなくても済むのである。アーティストの情報だって、ネット上で拾うほうが簡単だし廉価だ。そうなると、有料出版物を買うのは、業界人、マニア、熱心なファンに限られてしまう。音楽誌は「ほぼ業界誌」なのだ。ほぼ業界誌である以上、モノ書きも、業界に廻っている、限られた「お金」から分け前をもらうことになる。業界にあえてたてつこうとはしない。兼業だろうが専業だろうが、モノ書きはその流れのなかにすっかり呑みこまれてしまっている のである。

「お嬢さん、それでもプロのモノ書きは違うんです ぜ」といいたい気持ちはある。ネット上に跋扈する素人や素人に毛が生えたような連中とはまるでレベルが違うぞ、と。が、大半の人たちはウィキペディアあたりに掲載されている情報で十分だと思っている。それ以上はけっして求めない。ウィキペディアに詳細な情報を提供するモノ書きやライターだっている始末だ。自分で自分の首を絞めている。

それでもなおかつ批評は存在しつづける、とぼくは思っている。食える食えないの問題とはちと違う。食えなくとも批評は存続する。プロ(専業)の批評家は消え失せても、批評は生き残る。なぜなら、新しい音楽や新しいポップカルチャーはこれからも生まれてくると思うからだ。新しい音楽との格闘は、アーティストひとりでは難しい。それを適確に評価する目(耳)が必要だ。それこそ批評の存在意義だと思っている。時代は変わっても、「新しさ」を評価できる基準はやはり批評によって示される、ということだ。

※最後の課題については、稿をあらためたい。

あわせてどうぞ
菊地成孔が怒っている〜音楽と音楽批評 2012年4月5日

批評.COM  篠原章
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