日米安保体制と矛盾する「国家安全保障基本法案」 〜反対運動よりも安保論争・改憲論争を〜
自民党が「国家安全保障基本法」という法律を準備していることが、すでにネットなどで話題になり始めています(同法自民党案については自民党政策トピックスのページの https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-137.pdf)。
この法案をめぐっても、特定秘密保護法と同じく、「賛否」のみが注目されて感情的な議論が噴出し、まともな論争もできないまま結果的に欠陥の多い法律として成立してしまうことが懸念されます。いかに「理詰め」で考えていくかが、政治家・マスコミ・知識人に求められる姿勢だと思います。
特定秘密保護法の場合に見られたように、感情的な 「賛否」の議論に走った場合、安保の本質を問う議論ができないまま、自民党による「強行採決」に至るシナリオも十分想定されます。そうではなくて、この法 案が有する欠陥や矛盾をしっかりと指摘しながら、安保にとって本質的な議論に誘導することが求められている、と思います。
この法律にはふたつの大きな目的があると思います。
- 「集団的自衛権の行使」を憲法解釈に頼らずに可能にする。つまり、この法律は「改憲」せずとも集団的自衛権が行使できるような法的態勢を整える目的を持っています(第十条)。
- 安全保障問題に意思決定を政府の専権事項とすることで、「地方公共団体」の政府に対する劣位を明確にする。つまり、この法律は、沖縄県のような自治体が「基地」に反対することを牽制する目的を持っています(第三条)。
(1)については、一般的に考えると、ものごと(法的な手続き)の順序が完全に逆転しています。これまでと同様、憲法の条文を根本的に見直すことなく、憲法解釈によって「集団的自衛権」を法的に確立しようとするものです。本来であれば、「改憲」の是非を議論し、国家・国民として意思決定することが先決です。
集団的自衛権を憲法解釈の問題として片づける姿勢は、戦後日本が引き摺ってきた「曖昧さ」を今後も継続することになりかねません。その「曖昧さ」がもたらすデメリットのほうが、享受するメリットより大きいと思います。「集団的自衛権」については、時間はかかっても、「改憲」問題の一環として議論し、結論を出すほうが望ましいと思います。
集団的自衛権の行使は、現在の安保体制でいえば米国のみを対象としたものです。したがって日米安保条約との整合性が必要になります。現行の日米安保条約には、以下のように定められています。
第三条 締約国は、個別的に及び相互に協力して、継続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる。
第四条 締約国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたときはいつでも、いずれか一方の締約国の要請により協議する。
第五条 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
第三条では、「憲法上の規定」にしたがって安保体制を構築することがうたわれています。つまり、日本国憲法第9条の存在を前提に、両国がこの条約を結んでいることは明らかです。「日本は憲法の枠内でできることをせよ」ということを意味します。言い換えると、集団的自衛権の行使、すなわち「米国が攻撃されたら日本も協力して反撃する」という事態は想定されていません。さらに、第四条によれば、この場合の「安保」の対象地域は、日本または日本の安全に脅威を与える極東地域にかぎられていますから、米国が、たとえば中東などから攻撃されようが関係ないわけです※。第5条には、米軍基地も含む日本の領域が攻撃されたときは、両国は「憲法上の規定」に則って対処することが「宣言」されていますが、これもまた第三条と同じく、憲法の枠内での共同的な自衛行動 を求められるということになります。この条文も、憲法第9条を意識してつくられたことは明白です。「日本としては後方支援ぐらいしかできませんが、有事の ときは米国さんぜひともよろしく」という制定時・改訂時の意思が読み取れます。
ここで暫定的に評価を下せば、「国家安全保障基本法」は日米安保条約の前提や精神と相いれないということになります。日米安保条約が想定する憲法は現行憲法ですから、この法案をそのまま施行すると、下位法が上位法である憲法を超越してしまう事態になる怖れがあります。そのかぎりでは、共産党や社民党のこの法案に対する「憲法違反」という批判は正しいことになります。この法案が現行案のまま成立してしまえば、日米安保条約に反し、憲法違反になる可能性は高く、「この法律があるから日米安保改定や憲法改正が必要だ」という主客転倒したロジックを許すことになりかねません。
やはり日米安保体制に関する議論と改憲に関する議論を先行してしっかりやらないかぎり、「国家安全保障基本法案」をこの条文のまま成立させることはできない、という結論に至るのが自然だと思います。
自民党はこの法案を引っこめて、安保論争・改憲論争の場をしっかりとつくるべきです。護憲派も闇雲に「反対」して改憲論争を拒むのではなく、「日本の安全保障をどうすべきか」という議論に積極的に参加し、 理知的で辛抱強い論争を展開すべきでしょう。物理的・量的な反対運動を盛り上げても、自民党を利するだけです。「軍国主義が近づいている」といった感情的・脅迫的な運動に訴えるのではなく、日本にとって安保はいかにあるべきかを冷静に議論し、国民に対しても実のある提案を繰り返すべきです。特定秘密保護法のときのような反対運動を再現してもほとんど効果はありません。というよりも、感情的な反対運動は改憲派を必要以上に結束させ、かえって「軍国化」を早めることになりかねません。
断っておきますが、ここでいいたいのは、「改憲して再軍備せよ」ということではありません。「戦後日本が引き摺ってきた曖昧さ」が、日本の経済成長や社会的・文化的展開に寄与してきたことは確かですが、この態勢を未来永劫つづけることは、われわれ自身の甘えや責任感の欠如を放置することになります。いかなる結論でも皆で引き受ける覚悟で「憲法」や「安保」 について正面から議論する必要があるということなのです。
「安保上の意思決定は政府の専権事項であり、地方公共団体はそれに従うべきだ」というこの法案の第二の特徴は、普天間基地移設問題の長期化などを念頭に置いたものだと思われますが、普天間の事例があったからといって、自治権や私権(あるいは住民意思)を大幅に制約していいということにはなりません。武力攻撃事態対処関連三法(いわゆる有事対策法・2003 年)や国民保護法(2005年)などが発令される有事の場合を除き、安保上の意思決定が、その地域の公共の利益や意思決定と相対立する場合、他の諸法に照らして慎重にことをはこぶのが市民社会・民主主義社会のやり方です。「国の決めたことだから地方公共団体・住民は従え」というのでは少々乱暴です。普天間 移設問題の長期化は、安保上の問題というよりも、むしろ沖縄における民主主義や再分配に伴う失敗(またはリスクの発生)と考えたほうがいいでしょう。沖縄内部の問題が、基地問題を乗っ取るかたちで噴出した事例だということです。
そうした過去の事例に縛られて、「自治権」が制約されるのは、あまり好ましいことではありません。実は、ここでも問題は日本国憲法なのです。安保上、中央政府が地方政府に対する優位性を有すると考えるのが正しいとしても、憲法に見られる地方自治の概念はきわめて不明確で、地方自治体という言葉すら条文にはありません。憲法にも地方自治法にも「地方自治の本旨にもとづいて」と書いてあるのに、 「地方自治の本旨」が何を指すのか、どこにも出てきません。将来における道州制の導入も併せて考えれば、憲法に中央政府と地方政府(地方自治体)の関係を明記する必要があります。安保上、中央政府が地方政府に対する優位性を留保するとすれば、それも明記しておくほうがいいでしょう。ここにも改憲論争を避けるわけにはいかない理由が隠されているのです。「地方は国に従え」という乱暴な条文が出てくるのも、国と地方の関係が憲法上不明確だからです。国家安全保障基本法が国と地方の関係を規定するのは、健全な法的措置とはいえません。改憲論争こそが優先されるべきなのです。
国家安全保障基本法自民党案も、また自民党の改憲案も、背景には、極東における軍事負担を日本政府に肩代わりさせたいという米国政府の思惑が見え隠れしています。米国政府の財政負担を減らして、日本政府の財政負担を増やそうという目論見ともいえます。日米同盟があるかぎり、そうした要求は呑むべきだという主張もあるでしょう。しかし、戦後日本の安全保障は、良くも悪くも、日米同盟(日米安保条約)と日本国憲法がワンセットになったシステムの下でのみ機能してきたのです。安保政策を考えるということは、日米同盟と憲法の二つを同時に考えることにほかなりません。憲法についての議論を抜きに日米安保は考えられないということです。米国が要求してきたからといって、それを受けいれるだけではなく、憲法との整合性を考えないわけにはいきません。憲法が整合しないなら、改憲を議論するのが順当な対応でしょう。つ まり、日米同盟を強化するという立場でも、日本国憲法を見直さざるをえませんし、日米同盟を否定するという立場でも、日本国憲法を再検討せざるをえないのです。「日米同盟・日本国憲法がワンセットである」という戦後史および現状について、国民が広汎に議論し、結論を出すのには当然のことながらまだまだ時間がかかります。それは米国の置き土産でもあるのですから、米国政府に対して「時間はかかります、それはしょうがないでしょ?」と伝える一方で、安保に関する合意形成に精力を注ぐのが本来の筋です。
安保や改憲に関する論争をタブー視せず、地道な議論を積み重ねることこそ、「軍国化」を防ぎ、国民の安保に対する自覚を呼び覚ますことになると思います。それこそ、「外交力」「経済力」「軍事力」の三つのバランスがとれた安保政策につながります。「国家安全保障基本法」が悪法だといって感情的な反対姿勢を示している場合ではありません。この法に異論があるなら、法案の欠陥について冷静・詳細に指摘しながら、憲法と安保に関する論争をいかに巧みに導き出すかを考えるほうが、はるかに効果があるでしょう。対症療法ばかりで、原因療法が避けられるような事態が長続きするのは、不幸を再生産するだけです。
※日米同盟の対象地域について
「日米安保条約」が対象とする地域は「極東」ですが、1999年に成立した周辺事態法によって、「極東」という枠が事実上はずされ、<そのまま放置すれば、日本に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等、日本周辺の地域における日本の平和及び安全に重要な影響を与える事態>に対処できるようになっています。ただし、「周辺事態」とは曖昧なことばですが、どのように拡大解釈しても中東、欧州、アフリカ、南北アメリカにまで拡張することは難しいでしょう。
国家安全保障基本法案には、「地域」の限定はありません。万一、立法の手続きが本格化した場合、地域的限定の是非を議論する必要はあります。