玉城沖縄県知事の埋め立て反対策に「怒り」で応えたオール沖縄の行く末(追記あり)

知事による辺野古設計変更の「不承認」

玉城デニー沖縄県知事が、軟弱地盤の埋め立てに伴う辺野古の設計変更を承認しない方針を明示したことで、県政与党・オール沖縄が怒っているという。公有水面の埋め立てに関する権限を有する県知事が「設計変更を承認しない」ことは、埋め立てに反対し、埋め立て作業を遅滞させる行動(行政措置)だが、埋め立て反対の立場を貫いてきた玉城与党が怒るのは矛盾した話にも見える。だが、オール沖縄にとって「設計変更の不承認」は「最後の切り札」だった。知事がその切り札を使おうとしていることに彼らは怒っているのである(→沖縄タイムス「大きな山が動きそうだ」防衛省内を駆け巡る情報」2021年11月25日付記事)。

設計変更の承認または不承認は、翁長雄志前知事以来の懸案事項で、玉城県政下の2020年4月に沖縄防衛局が設計変更を沖縄県に申請したことで、承認手続きが本格的に動きだした。現在(2021年11月)まで、沖縄県は防衛局に対して452件の質問書を送るなど厳しく審査を進めてきた。とくに軟弱だと思われるB27地点の地盤(海面下90メートル)をめぐる「攻防」は激しく、沖縄県は、同地点の地盤について防衛局が地盤調査・土質調査が実施していないことを追及したが、防衛局は調査不要との姿勢を崩していない。

「裁判闘争」という新たな局面

県当局は、このまま工事を進めても、同地点の地盤の軟弱性は克服できないと判断(滑走路は将来的に地盤沈下するとの判断)しているが、防衛局は周辺地盤の調査を実施しているので、その懸念はないと判断している。沖縄県の担当者たちは「これ以上の国とのやり取りは不毛で、知事が承認・不承認を決める段階に来ている」との結論を出し、知事に下駄を預けてしまった。これを受けて玉城知事は判断の(これ以上の)先送りを諦め、「不承認」の姿勢を固めたわけだが、政府と防衛局にとって「不承認」は辺野古移設作業を止めるありがたくない行政措置で、今後、司法の場に結論を委ねる「裁判闘争」に入ると予想される。ただし、裁判は埋め立て工事を前に進めるには不可欠なプロセスなので、防衛省や政府関係者の本音はむしろ「歓迎」だろう。

県の担当者の立場からすれば裁判闘争は忌避したいところだが、それ以上に承認手続きが政治的理由で遅滞したままでいる状態は耐えられないものだったのではないかと推測できる。玉城知事は「行政の長」として職員の意向を無視することができなったのだろう。

進行中の工事である以上、司法は早期に結論を出すよう動くことになり、遅くとも半年から1年以内に司法的判断が下されると思われる。司法の判断については予断を許さないが、上級審の判断まで含めて予想すれば、「国の勝訴・県の敗訴」というかたちで決着する(埋め立てはこのまま防衛局の計画通りに続行される)可能性が高い。

「反対」の根拠を失いつつあるオール沖縄

これによって、来年2022年中にも辺野古埋め立て工事は完全に「適法」とされる事態を迎えることになろう。埋め立て反対運動はこれにより「反対の根拠」を失ってしまう。反対派にとって「引き延ばし作戦」ほど有効な作戦はなかったが、知事が「不承認」の決断を下せば、最後のカードを切ったかたちになり、引き延ばし作戦が成り立たなくなる。

県政与党(オール沖縄)がもっとも怖れるのはこの点である。つまり、知事が承認・不承認を判断することは、埋め立て反対運動の「地盤」を喪失させることを意味する。政府関係者も喜ばせてしまう。したがって、反対運動が組織防衛の観点から、玉城知事の決断に反対するのは当然といえば当然だが、県民・国民の立場に立てば、玉城知事が「設計変更承認・不承認」の結論をいつまでたっても出さないのは「知事の怠慢」に見えるし、知事の埋め立て反対姿勢を疑う人まで現れることだろう。

(11月26日追記)地元紙の報道によれば、1月に行われる名護市長選を睨んで、オール沖縄にとって有利な争点をつくりだすための「不承認」だと憶測する向きもあるようだが(→琉球新報「<辺野古不承認の深層>「切り札」なぜこの時期に? 選挙と議会、沖縄振興予算…」2021年1月26日付記事)、現段階での争点づくりが必ずしもオール沖縄に有利な状況をもたらすとは限らない。多くの名護市民にとって「辺野古」という争点は、すでに過去のものとなりつつある。再出馬を予定する渡具知武豊現市長(自公系)はもちろん、対抗馬とされる岸本洋平市議(オール沖縄系)も、そのことは十分認識しているはずだ。玉城知事は、埋め立て反対の立場を鮮明にすると同時に、行政上の手続きを整然と進めるために今回の「不承認」を決意したにすぎないと思う。その意味では知事の決断はむしろ「正攻法」といっていい。

政治的計算に疎い?玉城知事に対する不満

率直にいって玉城知事は翁長元知事と違って、どちらかといえば「政治的計算」に疎い政治家で、深謀遠慮の人とは言い難い(そこが彼の長所でもあるが、短所でもある)。オール沖縄はこの点が不満で、知事に判断の先送りを求めたいというのが本音だろうが、判断の先送りが県民に理解されるかどうかわからないという不安もあり、表向きは知事の判断を尊重せざるをえないだろう。

ここで設計変更に関する判断を先送りしても、いずれは判断せざるをえないのだから、オール沖縄もこの点に拘りすぎると墓穴を掘りかねない。このまま進めば来年の知事選は「辺野古埋め立て反対」だけで戦えないことは明白だが、司法判断の時期によっては、必ずしもオール沖縄に不利とはかぎらない(下級審は知事の判断を「是」とする可能性もある)。知事との相互依存関係を重視したとき、知事との関係にいま亀裂を入れるのは得策ではない。現段階のオール沖縄には玉城デニー氏以外の知事選有力候補は見当たらないのだから、ここは矛を収めるほかないだろう。

 

「賞味期限切れ」を迎えたオール沖縄

「不承認先送り」といった組織防衛策は組織の引き締めには効果があっても、結局のところ玉城知事に対する県民の支持を減らすことになる。総選挙や首長選の結果、金秀のオール沖縄からの離脱、さらにはコロナ対策への評価といった客観的な情勢からいって、来年の知事選は玉城知事にとって楽な戦いではない。今後も組織防衛に拘ると県民の心はますます離れていく。組織を守ろうとすればするほど組織は瓦解の危機に直面するということだ。

米軍基地や辺野古にオール沖縄が血道を上げている最中に観光客は急増したが、県の観光政策はそれに追いついているとはいえず、コロナの打撃を受けて観光業の脆弱性も露わになった。おまけに貧困問題もますますクローズアップされて、県民の「辺野古どころではない」という意識は日に日に高まっている。基地反対運動も、歴史や感情に訴えかけるものから、日本の安全保障政策・国防政策との整合性や合理性を問うもの、あるいは代替的なビジョンを提示するものへと変質を迫られていると思う。知事の「不承認」に怒りをぶつけるようでは、オール沖縄の運動体としての賞味期限は「終わっている」と見られても仕方がない。

ちなみに、埋め立てが完成した後に地盤沈下はけっこうな確率で起こると思う。とはいえ、埋め立てには地盤沈下はつきもので、羽田空港も関西空港も補修を積み重ねている。問題は補修のための経費が、国民にとって合理的負担になるのかどうかというところにある。自公政権が「是が非でも辺野古を完成させる」という決意を示している以上、つまり「辺野古にはいくらカネをかけてもいい」と判断している以上、それに対する反対や不満は、国政選挙の結果に反映させるほかない。先の総選挙で「(沖縄選出の)自公候補全員当選」という結果が示されたということは、国の安保・国防の方針に対して、沖縄でも一定の評価が下されたと読み替えることもできる。

二者択一の時代は終わった

オール沖縄会議のメンバーでもある遺骨収集団体・ガマフヤーの具志堅隆松氏があらたに提起した「遺骨を含む土砂問題」や基地から漏れ出た有害物質の問題、さらには米軍機の落下物の問題など、オール沖縄はまだまだ戦える材料はあると認識しているようだが、20年以上にわたる辺野古賛否の攻防を振り返ると、「あれは一体何だったのだ?」という疑問は禁じえない。結局のところ、「国の面子」と「反対派組織の存亡」だけが重要な争点となり、もっと本質的な「日米安保のあり方」という問題は置き去りにされてきた感がある。対中情勢の変化なども十分予想し得たのに、それすら主要な争点となることはなかった。

「地域住民の反対の意思」と「安保国防上の危機」を天秤に掛け、二者択一でどちらかを選べというような図式の立て方はもう陳腐化している。地方自治や地域住民を最大限尊重するとしても、安保・国坊という「公共財」をいかに合理的・効率的に配備するか、という議論のほうが優位に立つのは明白だ。地方自治や地域住民の尊重は原則として安保・国防という議論の枠内で行われるべきだ。国民に対して、安保や国防に対する「日本国としての考え方」を説得的に示すことができない政府にも大きな責任はあるが、一部ジャーナリズムや国政野党、はたまたかつての全共闘のように、対立の構図を意図的につくりだして「AをとるかBをとるか」という究極の選択を迫るような政治手法は、結局のところ、国防や安全保障をめぐる議論に何の貢献もしないし、地方自治のあり方をめぐる議論さえ実りのないものに変えてしまう。反対派のなかには「基地問題は環境問題」という論点を加える傾向も強いが、環境を論ずるなら沖縄という地域における自然環境の実情や環境政策全般が問われないと意味がないから、これもまた議論をいらずらに錯綜させるだけだ。

オール沖縄の存在は、安保・国防問題を主軸におきながら地方自治の問題、環境問題も含めて冷静かつ広汎に議論し、判断する環境を損なってきた。「米軍基地に反対」という政治姿勢は十分理解できるが、大半は安保や国防に対する具体的なビジョンを欠いた反対である。「あなたは戦争に反対ですか。それとも賛成ですか」といっているのに等しい。こんな二者択一から生まれるものは何もなく、そのレベルの「反対」なら、本来なら政治課題にすらならないはずだが、沖縄ではあるいはこの国では、「安保・国防・平和」の議論はそのレベルで推移してきた。党派的利益を捨て、このような無意味な問題提起から離れたとき、オール沖縄や基地反対派の面々は初めて安保や国防を議論することができる。地方自治や環境を語ることができるようになる。いうなれば今や「基地反対運動・平和運動」のあり方そのものが問われているのであり、オール沖縄を含む基地反対運動・平和運動は解体的再出発を求められているのだ。だが、そこまでの危機感を抱く人が果たしてどのくらいいるのだろうか。残念ながらはなはだ疑問である。

批評.COM  篠原章
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