「フツーの国」になる心の準備はできているか?(上)

Are You Ready for Becoming a Common Country ? ; On the Right of Collective Self-defense for Japanese (1)

【Summary】

主要国で「自衛権」を憲法に明記していないのは日本ぐらいである。集団的自衛権はおろか、個別的自衛権の存在も怪しい。その意味では「フツーの国」ではない。が、自衛権は明確でないのに自衛隊は存在する。ぼくは自民党の改憲案には反対だが、改憲の議論を通じて自衛権や自衛隊をどう位置づけるかを考えることは重要だと思っている。憲法解釈云々では、ぼくたちの曖昧な戦後に決着はつけられないからだ。

安倍政権は「戦後レジームの見直し」を掲げながら、結局は強引な憲法解釈で集団的自衛権の行使を認めた。これでは戦後レジームを肯定しただけで、ぼくたちの曖昧さはそのままだ。肝心な点は曖昧なまま「フツーの軍隊を持ったフツーの国になること」を選択しようとしている。

集団的自衛権を受け入れるかどうかは、「他国からの攻撃を覚悟する」という国民側の心の準備の問題である。安倍政権は、リスクを説明して国民に心の準備を 求めるのではなく、「これで日本は安心ですよ」とだけいった。それは責任ある姿勢ではない。「フツーの国になる」には痛みが伴うこともきちんと説明し、その痛みを引き受けることが日本と世界の平和に貢献する、と説明すべきだ。

正直いうと、ぼくにはまだ「フツーの国になる覚悟」も「フツーの国にならない覚悟」もできていない。が、「フツーの国」とはなんであるかについて、もっと知りたいと思う。もっと考えたいと思う。憲法解釈の変更などでやり過ごせる問題ではない。(全2回)。

【構成】

(上)
・曖昧さのなかに生きるニッポン
・自衛隊容認が曖昧さの出発点
・「個別的自衛権」にも否定的な日本国憲法

(下)
・安保の丸投げで繁栄を享受してきたニッポン
・「世界の警察官」を辞めたいアメリカ
・「フツーの国」の覚悟を求める集団的自衛権
・リスクを説明しない安倍政権



●曖昧さのなかに生きるニッポン

英語では、文意の解釈とか翻訳とかいう意味での「解釈」はinterpretation、多かれ少なかれ主観が伴うタームである。他方「法解釈」は construction。構造物を解析するといったニュアンスである。「法」は、言葉というパーツを厳密に計算しながら組み立てたものだから、法解釈と は、組み立てられた時点での理想に遡及しながらその意味を探る行為で、言葉に対する一定の客観性を伴っている。今回の憲法解釈の変更のプロセスを見ていると、constructionではなくてinterpretationだよ、と思う。やっぱり和歌や俳句の解釈とあんまり変わらない。和歌や俳句の伝統がすっかり根づいているのか。

が、憲法を和歌か俳句のように主観的に解釈する姿を見るのは今に始まったことではない。メディアやネットでは、閣議決定による今回の憲法解釈の変更を非難する論調が主流だが、自衛隊の創設やPKOなどへの派遣も、「憲法解釈」を通じて最終的に国会で容認されてきたという経緯がある。憲法9条をめぐる首相や内閣による憲法解釈の変更は枚挙にいとまがない。「文学」である。「この話は、ああも解釈できる、こうも解釈できる」のオンパレード。

●自衛隊容認が曖昧さの出発点

そもそも憲法前文および第9条を字義通りに解釈すれば、自衛隊の違憲性は左右の立場を問わず否定できない。憲法上すっかり浮いた存在になっている自衛隊をどう扱うのか。問題を真剣に考え始めれば、「憲法改正」にいたる道行きもありうるはずだが、その議論を避けて「解釈」という手法で自衛隊を認めてきたのが 戦後日本の安保政策の基本だった。自民党だけではない。共産党を含むすべての政党が、このプロセスに責任がある。

正面から議論せず解釈で逃げるという「曖昧さ」がこれまで日本の「平和」を保ってきたともいえる。が、それは虚構の上に現実を組み立てるような議論だから、脆く崩れやすい。いつかは破綻する。この世界では、日本政府に安保を丸投げさせた(日本を軍事的に属国化した)アメリカの軍事力だけが唯一のリアリティである。

安倍首相の従来からの主張は、その曖昧さからの脱却、つまり「戦後レジームからの脱却」だったはずだ。ところが、蓋を開けてみれば、安倍政権も戦後レジームの枠内での安保政策の変更だった。

現行憲法を一字一句変えさせないという護憲派から見れば、今回の閣議決定は暴挙だろうが、改憲を宗旨とする安倍首相が「憲法解釈変更」までしか進めなかったのは「護憲派の判定勝ち」という見方もできる。集団的自衛権の話は改憲への第一歩だというが、おそらく思惑通りには進まないだろう。関連法の改正案を多数提出して国会での議論に備えなければならない安倍政権に憲法を改正する余力はない、とぼくは予想している。なによりもぼくたちは、日だまりのなかの茫漠とした記憶のような曖昧さを愛おしむ国民である。改憲の心の準備はまだできていない。

自衛隊を是認しつつ憲法は改正しないという曖昧さと、ぼくらはいつまで、どのようにつきあえばよいのか。護憲派は「憲法が軍国化の歯止めになっている」というが、実態としては彼ら護憲派さえも憲法解釈の変更を受け入れて自衛隊を認め、日米同盟を追認してきた。民主党・社会民主党の前身である社会党がいい例だ。「絶対的平和主義」を掲げるなら自衛隊廃止を提案するか、中立国を目指して日米同盟をも拒絶するような憲法を提案したらどうかと思うが、改憲の議論は 依然として強いタブーになっているから、議論そのものが成り立ちにくい。自衛隊はOK、日米同盟もOK、改憲はNOという矛盾を解消しないかぎり、これから先も半永久的に「憲法解釈の変更」に直面することになる。曖昧さのなかで浮き沈みし、一喜一憂する時代は続く。

●「個別的自衛権」にも否定的な日本国憲法

ぼくが曖昧さに対してシニカルな姿勢をもっているからといって、なにも安倍改憲論を応援しているわけではない。改憲はやぶさかでないが、自民党の憲法改正 草案は受け入れがたい。安倍政権による憲法解釈の変更を暴挙だとは思わないが、肝心な点が欠け落ちた、強引な解釈変更だと思う。最大の懸念は、「フツーの 国」になろうとして「フツーの国」のリスクを教えてくれないところにある。

個別的自衛権も集団的自衛権も、国際慣習法や国連憲章で認められている。日本の集団的自衛権が国内的に認められなかったのは、日本国憲法第9条があるからである。各国憲法には、「戦争するために軍事力を保持する」とは書いていない。が、「軍事力は自国領土を侵略しようとする勢力を排除する手段としてこれを保有する」といった条項は必ずある。日本国憲法にはそうした条項はない。個別的自衛権の保持も宣言されていないのである。

それどころか、

  1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

と書いてある。

学説はいくつかあるが、この条文を素直に読むかぎり、自衛隊そのものが憲法違反となる可能性は高い。内閣や国会は、自衛隊が問題になる案件について、その都度苦しい解釈を繰り返してきたが、そうした点から見ても、個別的自衛権の違憲性は排除できない。そこからさらに踏みこんだ集団的自衛権を合憲であると解 釈するのは、どう考えても強引だ。「曖昧さ」の極みといってもいい。

集団的自衛権どころか、個別的自衛権の保持も怪しい日本国憲法は、日本側の戦禍に対する反省と、日本を丸裸にしてしまおうというというアメリカ側の思惑が詰まった日米合作である。制憲の主導権を握っていたマッカーサーは、朝鮮戦争時に、「日本に軍備を持たせておけば米軍の負担が軽くなったのに」と語ったというが、その後、警察予備隊、保安隊を経て自衛隊が創設されたのも(1954年)、米側の反省がひとつの動機になっている(もちろん、旧軍人の失業対策や国境防衛という意図もある)。

(「フツーの国」になる心の準備はできているか?(下)につづく)

marine

批評.COM  篠原章
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