トランプ関税と左翼思想家・ネグリの定義する「帝国」「マルチチュード」
冷戦構造の終焉以後、世界を覆ったグローバリズムの潮流に対し、イタリアの左派思想家アントニオ・ネグリは『〈帝国〉』(2000年/マイケル・ハートとの共著)という著作の中で独自の分析を行った。「帝国」とは、もはや米国一国による覇権体制ではなく、多国籍企業や国際機関、NGO、メディアなどが絡み合うネットワーク型の権力構造であり、国家主権を超越した新しい支配体制であるという。
この議論は、たしかにグローバル資本主義の柔軟性と、旧来の国民国家の解体過程を鋭く捉えていた点で一考に値する。
しかし、問題はその後だ。ネグリは、この「帝国」に対抗しうる主体として「マルチチュード(群衆)」という新概念を対置する。旧来の労働者階級だけでなく、知識労働者や非正規労働者、グローバル化によって既得権を失った中産層など、極めて多様な立場の人々を包摂する概念だという。
筆者はかつて、ネグリ本人にこの「マルチチュード」はマルクスの階級概念と同義なのかと問うたことがある。彼は即座に「その通りだ」と応じた。だが、その応答にこそ、この理論の限界を露呈しているようにも思われる。
というのも、「マルチチュード」はその多様性ゆえに、共通の階級意識や運動原理を持ち得ず、統一的な政治主体として形成されにくい。近年のオキュパイ運動やBLM、ハラスメントとコンプライアンスを合い言葉にしたフェミニズム運動などに象徴されるように、瞬発力・発信力はあっても、長期的な政策提言や制度改革へと結実する例は多くはない。
一方、現実の政治はどうか。たとえばドナルド・トランプが唱えた「アメリカファースト」は、グローバリズムに抗する一種のナショナルな反乱であった。関税政策=相互関税によって多国籍企業の利害と衝突し、製造業の再建と雇用保護を訴える姿勢は、ネグリ的な「帝国」への挑戦にも見えた。
だが、その本質は「帝国の破壊」ではなく「帝国の再編」であった。サプライチェーンの再構築や中国への経済依存の脱却は、新たな形でのグローバル秩序を生み出したにすぎない。帝国は、柔軟に変形しながら、依然として世界を覆っており、アメリカを核とするグローバル市場・多国籍企業の「支配」から逃れる術は容易に見つからないだろう。現にトランプ大統領は、中国以外の国に対する相互関税を「90日間猶予する」と発表し、「アメリカファースト」という方針を自ら後退させている(もちろんその行く末は依然として不透明だが…)。
こうして見ると、「帝国」論は構造分析としては有効だが、「マルチチュード」を現実の運動主体とするには無理がある。とりわけ、思想的には反権力であっても、実際には資本主義と容易に折り合う多様性志向の運動は、しばしば大企業の広告戦略や消費文化に取り込まれ、批判の牙を失っている。
むしろ我々が問うべきは、国家という単位を放棄せずに、グローバリズムに抗する民主主義や労働の枠組みをいかに再構築するかであろう。新自由主義が破壊してきた「中間層」や「共同体」への再注目、制度の側からの再統合・再編成こそが、いま最も必要とされている。
ネグリの理論は、グローバリズム批判の一つの参考にはなる。だが、そこから現実の政治戦略を導き出すには限界がある。むしろ我々に求められているのは、ポスト帝国・ポスト多国籍資本の時代にふさわしい、新しい統治の枠組みを模索することなのではないか。