【特集: はっぴいえんど】サエキけんぞう×篠原章対談 第3回

Saeki Kenzo & Shinohara Akira ; Talk About Happy End, the Japanese Most Legendary Rock Band Vol.3

サエキけんぞう×篠原章対談 第2回からつづき

特集: はっぴいえんど

サエキけんぞう×篠原章対談 第3回

サエキけんぞう×篠原章 対談第3回(全6回)。『レコード・コレクターズ』15年4月号「大滝詠一特集」に、サエキけんぞうの新史観原稿、篠原章のあがた森魚、大滝詠一についてのインタビューあり!

1970年は第二の明治維新?

篠原章
「ぼくは“人は演ずるものだ”だと思います。役割を与えられたと思いこんでいる人たちが演じているんだと。真面目にやってきた人たちは、とても苦労したと思います。より暗くなったり、自死に追いこまれたり。でも、71年頃に運動が収束して、大半の“卒業生”は、役人や大学教師になるとか、企業の先兵として 世界各地で日本製品を売るとか、そういうメインストリームの仕事に就いたわけですからね。」

サエキけんぞう
「なるほど、僕は、手塚治虫の漫画誌『COM』(永島慎二「フーテン」~写真掲載)の中にも潜んでいた“ホロ苦い暗さ”にとても感じ入りました。この絵の持つ、焦がれるような寂しさは、あの時代独特のメランコリーだけど、これが行き場がなくなり、村上春樹「ノルウェーの森」に描かれるような、70年代前半に自殺する若者達にもつながる。永島慎二については、歌詞カー ドの感謝の人選にもでてたし、メンバーの証言もある。それは『ゆでめん』そのものだし、そうした若者の流れの中のひとつだった。」

篠原
「それはわかりますよ。僕もそう思っていた」

サエキ
「企業の尖兵が時代の先端に立つのはちょっと後だと思うんですね。60年代末から、70年代はじめにかけて、日本の若者は、思想からエンターテインメントへと大変なカーヴを曲がった。それは、60年代『ガロ』や『COM』的なものが1972年には跡形もなくなったことでもわかると思います、そうしたカーヴが、全く内容が異なる『ゆでめん』から『風街ろまん』の変化で象徴的に描かれている。」

篠原
「その流れはわかるけれども、あの頃の多くの若者は“何かを変えられる”という希望も持っていたんじゃないかと思うのです。都会と地方の温度差は、今からでは想像がつかないほど大きかったとか、思想なんかとは異なるそういう要素の方が、学生運動そのものよりも、政治・社会・文化のあり方に大きなインパクトをもたらしていたんじゃないか、って気がします。だから、学生運動やその周辺の気分っていうのは、時代の流れとしては大した潮流じゃなかったんだという気がするんですね。学生運動自体は。日本史的に見れば数行の出来事なんですよ。チョンマゲの時代から、文明開化に入った頃の激変に比べれば、という意味なんですけど。」

サエキ
「69年当時のロックシーンの香りがする細野さんと松本さんのエイプリル・フールから『ゆでめん』が、作られるまで、1年かかっていない。また、『ゆでめん』はたったの4日で録音されている。このことも1969年~70年の急流を現している。常々、大滝さんは、時代は変わる時にはあっという間に変わるといわれていたが、『ゆでめん』制作の前と後では、メンバー4人が生まれ変わったに等しい急流だった。

篠原
「そういう急流が存在したことは確かで、ぼくははっぴいえんどの四人が果たした役割って、明治維新のときの志士たちと同じくらい大きな意義があったと 思っています。政治や社会とはあまり関係ない、あくまでも音楽とか文化の領域での役割ですけどね。明治維新の時って、欧米から何を採り入れ、何を採り入れないかっていう決断については、あまり議論する暇もないくらいのスピード感があった。でも、決断は外人が下すんじゃなくて、若き明治の志士たちでしょう。ところが、太平洋戦争で敗北した後は、被占領国になって、文化的な領域でも取捨選択はアメリカ人に委ねられてしまった。入ってくる欧米カルチャーの大半が米国発か米国経由。で、ようやく自分たちである程度判断できるようになったのが60年代。独自のものへの覚醒が芽生えたのが60年代末から70年代初めじゃないかと思ってるんです。欧米カルチャーの受け入れ、変形を経て、欧米カルチャーと同質の音楽を創ろうという時期に生まれたのがはっぴいえんどじゃな いか。録音環境も、音楽情報も圧倒的に英米と差があったにもかかわらず、あの4人は、たとえば、リトルフィートなんかとは同じところに立って音楽を創ろうとしたんじゃないか。」

サエキ
「ホントにそうですね。」

篠原
「たとえば、『Happy End』で鈴木茂がやったことなんて、リトルフィートの先を行ってたという気がするんです。『バンド・ワゴン』はリトルフィートのコピーじゃなくて、同時代の、同じクオリティの音楽なんです。」

サエキ
「鈴木さんは3枚目『HAPPY END」録音時にローウェル・ジョージと会うまで、リトル・フィートを知らなかったという説もあるけど、同時平行だから、全く気にならない、むしろその後に作られた鈴木茂ソロ『バンド・ワゴン』のほうが、当時のアメリカン・シーンの盤と比べて、フュージョン的な意味も含めて早いかも。」

篠原
「細野さんも大瀧さんも、フィル・スペクターと同じ土俵に入るってつもりでやってきたと思います。ただ、そのことを周りが正しく評価できなくて、バッファローみたいとか、モビー・グレープみたいとか、CSN&Yみたいとか、“みたい”で括ってしまった。彼らは日本のロックを創りたかったんじゃなくて、英米と同じレベルで音楽をやりたかったんです。」

サエキ
「バッファローやモビーグレープという記号を防波堤のように使ってたけど、引用した音楽の中にはシカゴとかデッドの要素も入ってた。しかし、当時のロックの泥臭い状況の中では、防波堤がないと、カテゴライズされる危険に常にさらされてましたからね。」

篠原
「そうそう。真似とかなんとか言うレベルを超えてたんだけど、ブリティッシュVSウェストコーストといった二分法まででてきちゃった。たとえば、モビー・ グレープの『WOW』(写真3)収録の<he>という曲のイントロは<夏なんです>とそっくりなんだけど、模倣と言うには余りにも部分的だし。」

サエキ
「米VS英みたいな呪縛も凄かった。聴いてる我々は、バッファローやモビーよりもはっぴいえんどの方がずっと好きだった。」

篠原
「その通りですよね」

サエキけんぞう×篠原章対談 第4回につづく

全6回

サエキけんぞう×篠原章対談 第1回
サエキけんぞう×篠原章対談 第2回
サエキけんぞう×篠原章対談 第3回
サエキけんぞう×篠原章対談 第4回
サエキけんぞう×篠原章対談 第5回
サエキけんぞう×篠原章対談 第6回(最終回)

はっぴいえんど対談第3回

はっぴいえんど対談第3回

サエキけんぞう(左) × 篠原章(右)

サエキけんぞう(左) × 篠原章(右)

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