密林の秘境・オーシッタイ(2)

(「密林の秘境・オーシッタイ(1)」からの続き)
「しゃし☆くま~る」のパーキングに車を置かせてもらい、集落を歩くことにした。11月中旬だから気温25度、湿度60%ほど、暑くもなく寒くもない。曇天だが気持ちの良い日だ。

メインストリートといっても、店があるわけでもなければ、街灯があるわけでもない。密林を苦労して切り拓いたことが偲ばれる山原の田舎道である。オーシッタイの皆が共同作業で架けたと思われる小橋もある。季節がら飛び交うムシはわずかだが、春から夏にかけては、無数のハチ、虻(あぶ)、蚋(ぶよ)、蚊などが路上で舞い踊っているに違いない。左右の茂みの奥には、ハブだけではない、原色のヘビも潜んでいるだろう。ヤマビルも葉っぱの裏側に隠れて、こちらを狙っているはずだ。だが、今は爽やかな風が路上を吹き抜け、森の香りが疲れた心と体を癒してくれるようだ。

オーシッタイの暗い道

樹木に塞がれそうなオーシッタイのメインストリート

 

オーシッタイのメインロード

急に明るい場所に出た

 

 

森に包まれた何軒かの民家が息づくように佇んでいる。藍畑と藍染め工房があり、果樹農園と直売所があった。集落のはずれには窯もあるようだ。直売所の横には、カラフルな色調で描かれたオーシッタイの手書きの地図と「共同体の主張」のようなものが掲げられていた。「森に暮らしを求める」ことの厳しさも楽しさも知りつくした人たちが住んでいるのだろう。

オーシッタイの藍畑

初めて見た藍の畑

 

オーシッタイの地図とスローガン

地図とスローガン 時折書き換えられているようだ

彼らがこの森を選び、開墾・開拓に勤しんできた理由は知らない。だが、現在のように「ロハスな暮らしを求めて」「自然との共生への憧れ」「定年帰農を目指して」といった軟らかい動機からではないだろう。開拓者がこのオーシッタイに移り住んだ70年代、80年代前半はそんな時代ではなかったはずだ。

25年ほど前、沖縄で観るもの、聴くものがまだ刺激的だった頃のことだ。たまたま暖簾をくぐった石川(現うるま市)の居酒屋のカウンターで、隣り合わせになった名護署の「公安」の刑事から聞いた話を想いだした。

その頃の沖縄は今と違って「牧歌的」ともいえる反対運動の状況だったので、「名護署に公安の仕事なんてないでしょう。暇でいいなあ」と茶化すと、その刑事は呟くように話しだした。

「たしかに暇といえば暇なんだけどね。それでも仕事はあるんだよ。実は新左翼のある党派がコンミューンのような農場をつくって、山原のジャングルを開墾しながら革命の機会をうかがっているというんだね。まさかこの時代に革命はないと思うけれど、念のため彼らを監視するのが私の仕事なんだよ」

「先方も監視されていることは重々承知しているから大人しいもんだ。こちらが訪ねて行けばお茶を出してくれるし、世間話も普通にする。それが私の日課なんだ。山原のジャングルじゃ大したこともできないだろうが、うっかりもできないからね。この日課が大切なんだよ」

以来、刑事の話に出て来た農場がずっと気になっていた。その農場がオーシッタイとはかぎらないが、内地や沖縄での都会暮らしを捨てて密林を切り拓くに至った人びとの心情やその後の歳月を慮(おもんぱか)ると、胸が締めつけられる思いだ。水は豊かだが、お世辞にも肥沃とはいえぬ山間の傾斜地を開墾する移住者や共同体の辛苦。少なからぬ犠牲もあっただろう。耐えかねて村を出て行く人もいただろう。我々には到底うかがい知ることのできない経験と底知れぬ葛藤が、ここオーシッタイには凝縮されている。「廃村を再生した」という美談だけで語り尽くすことはとてもできないはずだ。

事後にわかったことだが、廃村や過疎について調査を進めているTEAM HAYANEKOのホームページによれば、オーシッタイへの移住と開拓を決断した人びとの歴史については、オーシッタイ在住の平良良昭さんが中心になってまとめた『「杣山(そまやま)とオーシッタイ塾」報告集 平成8年度 やんばる 杣山と開墾集落』 (名護親方塾 杣山とオーシッタイ塾/編集)が詳しいという。東京ではもちろん入手不可能で、沖縄でも県立図書館にはなく、唯一名護市立図書館のみが所蔵している。機会を見て読んでみるつもりだ。

ただ、オーシッタイでの開墾の歴史と「開拓・開墾の日本史」を同一視することはできない。明治政府によって国策化された開墾・開拓政策(主として北海道を舞台に展開)は、旧士族の失業対策と農村部の疲弊が都市部の貧困に移植され増幅されるという事態に直面して推し進められたものだ。「農」の犠牲の上に「工」が育まれるという産業資本主義の病弊を緩和するための窮余の策だったともいえる。こうしたプロセスで忘れてはならないのは、日本資本主義の発達が、「東北」を差別し、犠牲にするような社会経済構造の下で展開されたということだ。薩長土肥を中心とした藩閥政治のなかで、差別的な位置づけを与えられた東北が搾取されつづけてきたことは意外なほど知られていない。開拓・開墾・海外移民は、その東北差別の副産物だと僕は考えている。

わかりやすくいえば、無口で従順で身を粉にして働く田舎者の東北人をうまいこと利用して「近代日本」は前に進むことができたのである。「田舎者」がたとえどんなに優れていても、田舎者でありつづけることを強要するような社会的風潮は根強く残り、その特異な差別構造は戦後の高度経済成長期まで引き継がれた。「過疎」はその一例に過ぎない。だからといって今さら「日本資本主義の差別構造」を糾弾しようとはまるで思わないが、その事実は記憶に刻んでおくべきだと思う。

東北・津軽出身だった太宰治は、「津軽人」であることの劣等感と優越感の狭間で自問自答を繰り返していた。
たとえば『津軽』(1944年)では、

津軽の人よ、顔を挙げて笑えよ。(中略)日本の文華(原文のママ)が小さく完成して行きづまっている時、この津軽地方の大きい未完成が、どれだけ日本の希望になっているか

太宰治『津軽』より

と津軽人であることの劣等感と自負とがない交ぜになった感情を素直に露わにしている。
『十五年間』(1946年)では、

私は、津軽には文化なんてものは無く、したがって、津軽人の私も少しも文化人では無かったという事を発見してせいせいした。

太宰治『十五年間』より

と皮肉を込めて主流たる「日本文化」を批判している。

太宰のこうした思いにもかかわらず、戦後の日本政府は、戦後の食糧需要を補うべく東北を中心に各地で開墾政策を推し進め、荒廃地や廃村に農民を送りんだ。与えられた農地での営農に失敗する者も後を絶たなかったという。

東北差別・東北搾取という苦難の歴史を経験しながら、東北人はつねに前を向いて生きようとしてきたというのが、僕の印象である。

2013年に放映されたNHKの朝ドラ「あまちゃん」の中で、宮城出身の宮藤官九郎(脚本)は震災後の「北三陸」の人びとに次のような台詞をいわせている。

「いつまでも、被災者、被災者っていってられないからね」

ドラマ「あまちゃん」のセリフから

至極の名言だ。前を向いて生きるというのはこういうことなのか、とつくづく感心した。「被災」や「被害」に足を引っ張られることを拒絶し、未来をつかもうとする人びとの姿。「自立」とはまさにこうした姿勢を指している。宮藤官九郎はとくに意識していなかったかもしれないが、僕には「歴史の中の東北差別・東北搾取」の傷も、この台詞によって癒されていくような気がした。

(「密林の秘境・オーシッタイ(3)」に続く)

批評.COM  篠原章
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