「琉球新報」「沖縄タイムス」の論説記事に欠けるもの—韓国紙に学ぶ「自省的」な姿勢

「琉球新報」も「沖縄タイムス」もダメな新聞だと思ったことはない。その情報量は、東京で発行される「東京新聞」や他の多くの地方紙を凌駕する。むろん、地方紙に共通の宿命である誤った観測記事(郷土への思い入れゆえの誤報道)や事実誤認もあるが、県内各地域・各産業にまで広く深く目配りした紙面構成には時として圧倒される。両紙を読めば沖縄のことを深く知ることができるから、1990年代には(東京在住ながら)両紙を交互に定期購読していたし、琉球新報には連載記事や単発の論説まで寄稿してきた。

ただし、基地問題に関する記事、社説、論説は両紙とも大きくバランスを欠いている。「基地反対」「辺野古移設反対」という彼らの社としての立場に異論があるからではない。複眼的に書かれている(さまざまな立場・主張への配慮のある)他の分野の記事に比べるときわめて単眼的であり、「沖縄=善または被害者」「政府=悪または加害者」という単純な図式に縛られすぎている嫌いがあるからである。周知の通り私はこの「偏り」を厳しく批判してきた。

両紙については現在も「愛読者」で毎日記事をチェックしているが(主としてネット記事)、ここ4〜5年は韓国紙ネット版の日本語訳記事も愛読している。チェックするのは、「朝鮮日報」「中央日報」「東亜日報」「ハンギョレ」の4紙だが、これらは韓国の日本に対する「愛憎」を知るために欠かせない重要な情報源である。日本礼賛記事も多い朝鮮日報から日本批判にほぼ終始している「ハンギョレ」まで、それぞれ異なった編集方針を取っており、「韓国メディアはすべて反日」といった評価は的を外れている。

「朝鮮日報」を読むと、「日本を褒めてくれるのはありがたいが、ちょっと褒めすぎ」と思うこともしばしばだが、「ハンギョレ」を読むと、「日本人は植民者としてつねに糾弾されている」と感ずることが多い。いずれにせよ、韓国のメディアが日本の実情や動向をつねに注視していることはたしかだ(それに比べると日本のメディアは韓国の実情や動向に冷淡だ)。

最近の中央日報では、ソウル大学教授で建築家のソ・ヒョン(徐顯)氏が執筆する論説(中央時評)が出色だ。建築家らしい立体的な視点から事物を観察する技に長けているソ・ヒョン氏は、日韓双方の一般的な識者よりはるかに日韓関係に対してバランスのある主張の持ち主だと思う。中央日報は保守系紙だが、どちらかといえば世論に阿る傾向があり、ソ・ヒョン氏も同紙の編集方針を意識しながら書いているから、韓国に対する反感の強い日本人には受け入れがたい表現もあるが、「あ、そうだったのか」と膝を叩きたくなる指摘は多い。

彼が大切にするのは未来を見据えた現在のあり方である。彼にとって「過去」は現在と未来を俯瞰するための足場にすぎない。だから、韓国政府や韓国人が過去に縛られて身動きが取れなくなっている現状を厳しく批判する。ふだん「日帝」(植民地時代の日本を韓国では「日帝」と呼ぶ)時代の名残りに甘えて暮らしているくせに、他方で過剰なまでに日本を批判する韓国人の姿をアンバランスだと指摘して、「未来を見据えて日本との関係を構築せよ」としばしば提言する。

最近とくに教えられたのは、「謝罪が日本の荷物なら、反省こそが私たちの力」と題する3月8日付けの論説だ。

彼はまず「創氏改名」に触れる。韓国の伝統に逆らうような氏姓制度(戸籍)を導入しようとした日帝・朝鮮総督府の「悪政」といわれるものだ。

創氏改名。植民地時代の朝鮮半島で大日本帝国が日帝蛮行として必ず挙げられる単語だ。そして姓を変え名前を直して親日派として断罪される人々がいる。ところでそのような名前を娘につけたのは誰だったのだろうか。どうせ消えてなくなった国なんだから、時代に合わせて生きようと思ったのかもしれない。新たな流行だと信じていたかもしれない。彼らは風に吹かれるままにただ揺れる民衆ではなかっただろうか。

悪政といわれる創氏改名だが強制ではなかった。「創氏改名を望めば許可する」というのが朝鮮総督府の立場だ。韓国では、総督府のこの方針に従って創氏改名した人々が「親日派」として断罪されるが、それはおかしいじゃないか、というのがソ・ヒョン氏の最初の問題提起である。

これにつづいて彼が問題とするのは、朝鮮王朝王宮の城門だった光化門周辺の広場整備計画をめぐり噴出した議論。「朝鮮総督府の庁舎を造るために、光化門に近い景福宮前の道を日帝は朝鮮の歴史を踏みにじって勝手に湾曲させた」と伝えられているが、「実態は違う」とソ・ヒョン氏は指摘する。日本が韓国を植民地化する前からこの道は曲がっており、朝鮮総督府はその現状を追認しただけだという。「私たちは存在しない虚像の標的(日本あるいは日帝)を作って、そこに興奮と怒りの矢を浴びせているのではないか」というのが彼の主張だ。

(韓国の)被害意識は倭色、親日という単語を乱用して拡大適用させた。歴史は消すことができない。忘れてはいけない。しかし、過去が現実を捕縛するのは困る。歴史の本を読む理由は未来の鳥瞰図を描くためだ。今、明らかに日本は平和憲法で維持される国で、天皇も人間であることを自ら明らかにした。子孫だという理由で戦争の責任と謝罪を依然として要求するなら、先に謝らなければならない主体は韓国戦争(朝鮮戦争)侵略者の孫だ。大韓民国政府が光復(解放)前に樹立されたとすれば、国民を保護することができなかった大韓民国政府も謝らなければならないだろう。私たちが過去の政府の政策を否定しながら何世代前の者の行為を追及するのは論理矛盾だ。

「韓国の日本に対する過剰なまでの被害者意識が現実を歪め、韓国が前に進むことを拒んでいる」というのが、ソ・ヒョン氏の主張の骨子である。同様の論調は朝鮮日報の社説にもしばしば登場する。つねづね韓国の保守系紙の論壇は軽視できないと思っているが、その中でもソ・ヒョン氏の主張はきわめてバランスの取れたものだ。

「韓国=被害者 日本=加害者」とはどこかで聴いた話だ。沖縄と日本の関係をめぐって沖縄の側から発せられる日本(ヤマト)批判にも通ずるところが多い。事実が誇張され、歪められて、「日本人(ヤマトーンチュ)と日本政府の悪行の末に沖縄は今も苦しめられている」という批判に走るメディアや識者の論調がそれだ。「日本人」や「日本政府」が100%免罪されるなどとは微塵も思わないが、「沖縄=被害者 日本=加害者」という構図がうんざりするほど繰り返し強調される現状はノーマルとはいえない。

「辺野古埋め立て」が日本政府と沖縄県との長年の綱引きの末に合意された「妥協の産物」であることは、多くの人が知るところである。政府に責任があることは言を俟たないが、沖縄側にも等しく責任がある。「琉球新報」「沖縄タイムス」の論説などから、こうした「共犯関係」を読み取れることはまずない。読み取れるのは「一方的に政府が悪い」「被害者・弱者である沖縄を蹂躙するな」という論調だけである。

両紙は仲井眞元知事だけを厳しく批判するが、大田知事以降の歴代知事は、現在の玉城デニー知事も含めて、辺野古移設問題を長引かせ、混乱させてきたことに対する責任を負わなければならない。共犯関係の「事実」を指摘することこそ「琉球新報」「沖縄タイムス」の責任ではないのか。政府・沖縄県のまっとうな対話を可能にするためには、政府だけでなく沖縄の側にも自省的な姿勢が求められるが、両紙の論説記事などからそうした姿勢を汲み取ることはできない。「沖縄は被害者だ、沖縄はかわいそうだ」という前提から出発する本土メディアの姿勢もほぼ同罪だが、沖縄の側から自省的な姿勢が発信されない限り、本土のメディアは沖縄のメディアへの追随を続けるだろう。

「自省」という視点を示すことができる韓国紙と、そうした視点を欠いている「琉球新報」「沖縄タイムス」。世論の形成に影響力のあるメディアの姿勢としてどちらが正しいかは明らかである。社説・社論でそうした姿勢を取れとまでいわない。識者の寄稿記事でもいい、沖縄にとって不都合な指摘や論説を折に触れて掲載する姿勢は不可欠だ。

批評.COM  篠原章
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