『天気の子』— 爺婆にこそ知ってもらいたい新海誠の世界
新海誠の世界
ぼくは新海誠が「この世界」というときの「世界」が好きだ。17才の頃からぼくが抱き、その後も逃れられなくなっている世界観に近似している。彼のいう「この世界」は、複雑な現実に初めて直面した十代の少年少女が抱く「あるべき世界」の姿だと思う。それは、ときとして理想主義への過剰な傾倒を誘発するリスクを伴うが、新海誠の「この世界」はイデオロギーの終焉を前提としているから、ぼくらやぼくらの先輩の世代の抱く世界観とは一線を画している。それはイデオロギーと既成観念に縛られがちなぼくらの世界観より数段ベターなものだ。彼の描く世界観が、ぼくらの抱く世界観より多くの実りをもたらすものであることはほぼ確実だ。
最新作『天気の子』はアニメと音楽(RADWIMPS)を融合させた作品として秀逸である。『君の名は。』につづいて世界を席巻した新海誠の才能には脱帽のひと言しかない。
ただし、正直いってかなり迷惑な映画でもあった。新海誠による「デジャブ被害」を受けてしまったからである。
代々木会館へのデジャヴ・トリップ
『天気の子』の主な舞台のひとつは、東京の代々木の廃ビルだ。代々木に縁のある方なら知っているだろうが、JR代々木駅西口改札を出て右側、新宿南口方向に30メートルほど進むと代々木会館という雑居ビルがあった。このビルが『天気の子』では「準主役級」の活躍をしている。
パチンコ屋あり、雀荘あり、ビリヤード場あり、とんかつ屋あり、居酒屋あり、正体不明の事務所ありの、文字どおり「都会の魔窟」のような雑居ビルで、ぼくがこの街に縁のあった1970年代半ばから1990年代前半までの約20年間、ここには幾たびとなく足を踏み入れている。
ぼくと同様、この街で青春を過ごした者には、代々木会館の記憶が何らかのかたちで刻まれていはずだ。おまけに、日本テレビ系ドラマ『傷だらけの天使』(1974年〜75年)の主人公、萩原健一と水谷豊が、設定上このビルに住んでいた。当時からフェロモンが放出されている場所だった。
10年ほど前にはすでに廃ビル同然だったが、二、三のテナントが営業をつづけているのは知っていた。まさかあの新海誠が廃ビルとなったこの代々木会館に目をつけ、「世界の秘密についての物語」である『天気の子』の主舞台に選ぶとは思いもよらなかった。
『天気の子』の公開直後に代々木会館は取り壊されているようだが、この映画のおかげで隠されていた記憶の断面が、再び甦ってしまった。「苦い記憶」「酸っぱい記憶」ばかりだ。想いだしたくない記憶ではないが、ぼくにとっては厄介な記憶であり、『天気の子』のリアルな描写のおかげで、いったい自分がいつの時代を生きているのか(生きてきたのか)わからなくなってしまった、
新海誠によって与えられた「デジャヴ被害」はまだある。すべて実在する「場」についてのものだ。ぼくの住む新宿の街や以前から気になっていた山手線田端駅近くの奇天烈な建物も映画の舞台に選ばれている。皆、よく知っている土地ばかりだ。アニメとCGを組み合わせる技術が優れているため、そうした既知の「場」のリアリズムは半端ではない。ぼくの記憶データファイルは、この映画の各場面によってすっかり上書きされてしまったのである。
新海監督はわが家の近隣に住んでいる(らしい)。近所の飲み屋で見かけたことも何度かある(お恥ずかしいことに、前作『君の名は。』の公開直後、呑み友だちの新聞記者に「あれ、新海さんだよ」と教えられ、初めて名前を知る始末)。だから、現実に彼が住んでいる世界とぼくが住んでいる世界がダブるのは何ら不思議ではないのだが、そのおかげで酷い目にあっているという「被害者意識」は強い。
RADWIMPSと新海誠の東京コンプレックス
RADWIMPSの音楽が支持されるのはわかる。映像との一体化は見事だ。だが、洋楽の残り香を感じさせない彼らの音楽には残念ながら惹かれない。少なくとも、英米音楽に植民されたぼくはワクワクしない。CHARAに通底するものはあるが、CHARAとRADWIMPSの世代格差に起因するのか、CHARAのほうがなぜかすんなり入ってくる。
とはいえ、信州・小海出身の新海と帰国子女であるRADWIMPSの野田洋次郎が共同作業で描く「東京」への憧憬には愛着が持てた。善き「東京コンプレックス」だと思う。根っ子は浅いが開かれた街として東京が描かれている。映画ではその東京が水没してしまう。ぼくは水没する場面を見て大泣きしてしまった。小松左京原作の映画『日本沈没』(1973年)を観て以来のことだと思うが、久方ぶりに東京が愛おしくなった。
作詞家としての野田は逸材だ。主題歌「愛にできることはまだあるかい」の「諦めた者と賢い者だけが勝者の時代に」という一節には心を持って行かれた。ベタな歌詞だが、自分のなかのベタな部分に手を突っこまれた。こうしたベタな歌詞をさらりと書けてしまう野田が注目されるのはよくわかる。
閑話休題。『天気の子』は迷惑だが価値ある映画である。1000万人が観たというが、その大半は10代から30代の観客だろう。
還暦を過ぎた爺婆にこそこの映画を観てもらいたい。そして今からでも遅くはないから反省してもらいたい。
自慢ではないが、ぼくは反省した。ぼくが反省したからといってこの世界は変えられないが、「変えたい」という欲求を持つ者たちに対する温かい目を養うことはできると思う。それはとても大切なことだ。