池澤夏樹さんは知念ウシさんに負けたのか

1.池澤夏樹さんの「復帰の日」のコラム

「沖縄の本土復帰の日」である5月15日に、池澤夏樹さんの朝日新聞夕刊のコラムに「同級生は怒っている」というエッセーが掲載された(改行などは批評COMで編集/画像は朝日新聞デジタル版のスクリーンショット)。

朝日新聞デジタル版スクリーンショット(2012年5月15日付)

朝日新聞デジタル版スクリーンショット(2012年5月15日付)

同級生は怒っている 基地は早々にお持ち帰りを

沖縄戦が終わった2週間後にぼくは生まれた。
ぼくが27歳になった時に沖縄は日本に戻ってきた。それから40年が過ぎた。その40年のうちの10年をぼくは沖縄で暮らした。50代はほとんど沖縄にいたことになる。最初に行ったのは1973年、復帰の翌年だった。南の島の空気感はミクロネシアでよく知っていたのだが、沖縄はその上に濃厚な文化を持っていた。それがすごいということはわかったが、どう受け止めていいかわからず、たじたじになってひとまず退散した。いずれ力をつけてまた来ようと思った。その後で世界のあちこちに旅をして、3年ほどはギリシャで暮らし、1989年になって沖縄にまた行った。今度は弾き出されることはなかった。それからは頻繁に通いつめた。

返還=復帰とは何だったか?

四十数名のクラスに色の黒い小柄な転校生が来る。目はきらきらしているが肩に力が入っている。こぶしを握りしめて立っている。クラスのみんなは昔この子をいじめたことを忘れていない。強大な他校との喧嘩でこの子を前に出してぼろぼろの目に遭わせ、しかもその後で人質として差し出した。だから戻ってきても素直に「お帰り」と言えない。まして「ごめん」とはとても言えない。すごく気まずい。だけどこの子はおそろしく芸達者だった。歌がうまく、話がおもしろくて、料理の腕もいい。気まずい思いはそのままに、みんなが彼の持つ芸能力に夢中になった。つまりぼくたちは沖縄によって文化的に制覇されたのだ。

照屋林賢が率いる「りんけんバンド」が渋谷公会堂で 公演したのは1991年の11月だった。あの大きな会場がファンでいっぱいになった。沖縄はすごいと思った。日本はどこでも均一化の圧力が強いが、沖縄はそれをはね返した。沖縄が加わることでこの国の間口がぐんと広がった気がした。1993年にぼくは9回沖縄に通った。翌年には本拠を沖縄に移し、用が ある時だけ上京することにした。それからの10年、ぼくは「帰りそびれた観光客」であり「勝手に特派員」だった。特派員の仕事は沖縄の現況を本土(ないし内地)に報告することだが、そのほとんどは基地がらみの悪いニュースだった。米軍機が事故を起こす。米兵の犯罪が後を絶たない。いちばん広い平らな土地を基地に取られているからまともな産業が育たない。そういうことを近くで見聞きして、憤慨して、本土の新聞雑誌に伝える。

沖縄の基地は動かない。帝国主義のイギリスは力づくで香港を租借したが、条約に従って99年でちゃんと返した。沖縄に米軍基地が居座ってからこれで67年間になるけれど、百年たっても戻るかどうかわからない。普天間基地の危険と迷惑は見る気になれば誰の目にも明らかだ。本土の人たちは目を背けているだけ。1959年に石川市(現うるま市)の宮森小学校に米軍機が落ちて17人の死者を出した事故がついつい明日の普天間に重なる。死傷者こそ出なかったが2004年には基地に隣接する沖縄国際大学に米軍のヘリが落ちた。ラムズフェルドまでが普天間は危ないと言った。

2001年の9月11日、ニューヨークがテロの標的となった。全世界の米軍が臨戦態勢に入った。沖縄への修学旅行が軒並み中止になった。そんな危ないところへ子供をやれない、と親たちは言った。そこで生まれ育ってどこへも逃げ場のない沖縄の子供たちのことは話題にならなかった。辺野古への移転は無理だ。理屈で説得しても感情が受け入れない。理屈だって穴だらけ。小柄で色の黒い同級生は怒っている。なぜ本土の人にそれがわからないのだろう。40年もたつと過去の別の選択肢は現実的でなくなる。もしも 独立していたらという設問には答えようがない。戻った日本はとりあえず平和だったし、経済格差はあってもまずまずの暮らしになった。ぼくが移住したころの観光客年間500万という目標はなんなく実現した。しかし基地は動かないのだ。

ぼくは67歳で少しは丸くなり、沖縄も復帰40年で丸くなった。だが丸くなっても怒らなければならない時は怒るのだ。だから基地に対しては差別だと怒る。基地は早々にお持ち帰りいただきたい。それが沖縄の人々の40年目の本音だろう。

池澤さんが、これほどまでにりんけんバンドを評価しているとは思っていなかったので、東京でのステージ・デビューから一貫して応援しているぼくは、正直いってとても嬉しかった。おまけに、同じくぼくの応援する“やちむん”のアルバムにも、池澤さんはライナーノーツを寄せてくれたことがある。だから、池澤さんのエッセーについてあれやこれやいいたくない。だが、今回は黙っていないほうがいいと思った。

本題に入る前に、ちょっとだけ私的な沖縄体験に触れておきたい。

1981年にぼくは初めて沖縄を訪れた。竹富島に1週間。前後に那覇1泊ずつ、約10日間の旅だった。竹富島は色鮮やかな島だったが、那覇や石垣はモノクロームだった。生気がなかった。うち捨てられた島とはこのことだと思った。悲しい気持ちになった。ぼくはその後、沖縄に足を運ぶことはなかった。

1980年代の終わりに、徳間ジャパンレコードからの依頼で喜納昌吉や紫のアナログ盤を復刻CD化した。初CD化だった。別に沖縄モノだったからではない。「日本のロック」のアナログ盤を復刻CD化する作業の一環だった。喜納昌吉のライナーノーツは湯浅学さんに頼み、紫はぼ くが書いたという記憶がある。いずれもロックとして、ポップとして個性的な作品だったが、だからといって彼らの出身地である沖縄に惹かれることはなかった。沖縄は数ある音楽の発信地のうちのひとつに過ぎなかった。

ところが、1990年1月30日、たまたまレコード捜しに訪れた六本木WAVE(メガレコードストアのハシリ)の店頭で、りんけんバンドによる初の東京ライブに出くわした。天地がひっくり返る思いだった。はっぴいえんど以来の衝撃だった。2週間後、ぼくはかつてコザと呼ばれた沖縄市の胡屋十字路に飛び、照屋林賢さんに会った。林賢さんや知子さん、そして当時のりんけんバンドのメンバーだった玉城満さんや藤木勇人さんを生んだ沖縄がやたらと気になり、池澤さんと同じように沖縄に通いつめた。沖縄にはまった。

『ハイサイ沖縄読本』(1993年)、『熱烈!沖縄ガイド』(2000年)、『沖縄ナンクル読本』(2002年)など沖縄に関する本も書いたが、ぼくは池澤さんのように沖縄に住まなかった。そのわけについては新城和博さんとその仲間たちが編集していた『WONDER』という雑誌に書いた。「路傍の石を宝石と勘違いさせる沖縄の魔力」にとらわれるのが怖かった。沖縄に住んで得られるものもあるが、失うものもある。失うもののほうが大きいと考えたのだ。池澤さんや宮本亜門さんが羨ましいと思ったこともある。 宮里千里さんに「篠原さんも沖縄に住まないと、沖縄のことはわからないよ。早く引っ越してきなさい」と説教されたこともある。だが、いつまでも「観光客」 でいようと決意し、その後も沖縄には住んだことはない。

2.知念ウシさんの「池澤夏樹批判」批判

「観光客」としてお気楽な沖縄を楽しんでいればいい。そう決めこむはずだったが、ここ数年、たんなる「観光客」には留まっていられないと感ずるような出来事がいろいろあった。

「池澤夏樹さんが沖縄から追い出された」という噂もそのひとつだった。知念ウシさんに2001年頃から猛烈に批判されたことがきっかけとなって、池澤さんは沖縄を出てフランスに移住したというのだ。それを知ったのは、比較的最近のことだ。

調べてみたら、部落解放同盟の研究機関である部落解放研究所が編集する『部落開放』(2002年9月号)に収録の特集「ポストコロニアリズム・植民地主義は終わらない」に知念ウシさんの「空洞の埋まる日」という寄稿があった(テキストはWEBにもアップされている)。

私は 本屋でたまたま一冊の雑誌を手に取った。写真を主体とした、おしゃれでかっこいいと評判のその雑誌は9・11事件の特集を組んでいた。パラパラッとめくると池澤氏のインタビューが載っていた。9・11後の世界清勢や、それについて書くことの意義を雄弁に語っている。付いている写真もとてもかっこいい。このインタビューは次のように終わる。

――(中略)今のイギリスの文学だって、カズオ・イシグロもそうだけど、所謂イギリスから出て、周辺で俯瞰して見ている人が作品を提供している。だからそういう意味では、池澤さんが沖縄にいるということはメールマガジンの位相としても大きい役割だという感じはしますね。

池澤
全体の構図を見てとりやすい場所というものがあるでしょう。その意味で沖縄というのは、僕が意図して、確信犯として選んだ土地ですからね。

なんという冷酷な言葉なのだろうか。私はそう感じた。そして、沖縄の矛盾を背負わされて生きてきた祖父母や父母、友だち、顔も知らない強姦事件の被害者たちの姿が目に浮かんだ。私たちの苦しみや悲しみは、この野心的な日本人作家の足場にされているのか。気がつくと、私の瞳からはただ、涙がこぼれていた。

(『部落開放』(2002年9月号)「ポストコロニアリズム・植民地主義は終わらない」収録「空洞の埋まる日」知念ウシ)

このエッセーで、知念ウシさんは、「虐げられた民」の代表として、沖縄好きが高じて沖縄に住みついてしまった作家を「植民地主義者」の代表として断罪していた。

この作家は自分のインスピレーションやイメージを高めるため居住地として沖縄を選んだ。自分が「日本人」であるという立場から浮遊することが、彼の想像力の源泉であり、その先に見える「普遍性」を文学として表現することが彼の個性であった。

ぼくは、ここで引用されている池澤さんのことばの背景が痛いほどよくわかる。自分のいる場所を肯定することからは何も始まらない。自分のいる場所を否定することから新しい体験が始まる。絶対化からは隷従が、相対化からは自由が生まれる。それは冒険知(相対知)の世界だ。冒険知が知の世界のすべてではないが、新しいものを生みだすために、 もっとも有効なアプローチのひとつだと思っている。

沖縄から日本が透けて見える、といったのは池澤さんだけではない。ぼくも最初の沖縄本『ハイサイ沖縄読本』でそう書いた。自分の経験知を相対化するための冒険知が沖縄にはあると思った。そんな沖縄に、ぼくは抗しがたい「魔力」があると思い、それに縛られるのが怖かったから沖縄には住まなかった。だが、沖縄に縛られたいと思ったのか、あるいは沖縄に縛られないという自信があったのか、池澤さんはあえて沖縄に居を定めた。いずれにせよ、池澤さんやぼくが沖縄に感じたことが、「沖縄への甘え」であり、「沖縄に対する差別」だというのが、知念ウシさんの主張の肝だ。

知念ウシさんの論法では、池澤さんもぼくも、そしてほとんどの沖縄好きも植民地主義者というレッテルを貼られてしまう。沖縄の歴史に絡めて平易な言葉でいえば、ヤマトという支配者の子どもたちが、自分の癒しを求めて被支配地域であるウチナーにやってきて、善人ぶりながらさんざん甘い汁を吸っている、というイメージになる。

だが、池澤さんもぼくも日本を代表しているわけではない。形式的にも実質的にも、ぼくたちは日本の代表者ではない。日本という歴史空間のなかに生まれはしたが、日本という歴史を体現しているわけではない。同じように知念ウシさんも、沖縄という歴史空間のなかに生まれはしたが、沖縄という歴史を体現しているわけではない。まして沖縄を代表しているわけでもない。ぼくたちはすべて不平等で不公平な世界に生まれた一介の人間であるに過ぎない。

不平等と不公平を是正しながら、経済的豊かさをみなで享受できるようにするというのが、近代以降の社会的目標であり、その目標を達成するための大前提として「人権」があった。人権思想はいちおうの普及をみても、長い身分制社会を経験した国々は、ときとして形式的な人権の保障と実質的な差別のあいだで揺れ動いてきた。経済的な既得権を得た集団はそれを手放そうとせず、自分たちに有利なシステムもつくった。どの程度まで「不平等と不公平の是正」を行うかについてもさまざまな考え方がある。一連の過程を合理的に統御するシステムが完成しているかといえば、それもまだ未完成だ。

だが、一介の人間としてできることには限界があることをみな知っているから、一介の人間の寄せ集めである共同体に依存せざるをえないのだ。その寄せ集めを統御するシステムが民主主義だ。同時にぼくたちはその民主主義が不完全であることも知っている。その不完全さを承知しながら、どの“国家”も“自治組織”も民主主義という政体をとるのは、それに代わるものがまだ見つからないからである。民主主義という統御システムをとらないとすれば、強権や暴力によって個人の自由が奪われてしまう。言い換えれば、個人の自由を保障するために、ぼくたちは民主主義という意思決定システムを選択し、そのバージョンアップをつねに模索しているのだ。

日本という国に現在のような民主主義が生まれたのは わずか60数年前である。ぼくの父や祖父の子ども時代にまだまともな民主主義などなかった。普通選挙権もなかった。曾祖父の時代は江戸時代だった。身分制のある封建社会・幕藩制だ。祖父の時代になってようやく民権思想が一般化したが、それは現在の民主主義とはまるで違う。父は軍国主義によって青春を奪われ、母はそれによって日々 の食糧さえない子ども時代を過ごした。「わが家は被害者」などといいたいのではない。民主主義はまだ生まれたばかりだといいたいのである。成長過程にある。その過程で集権から分権という流れも生まれた。その過程で、多文化社会をキーワードとするポストコロニアリズムも生まれた。

そのポストコロニアリズムの時代を、池澤さんもぼくも、そして知念ウシさんも生きている。それは誰にとっても初体験の時代だ。

知念ウシさんは「差別は無意識のこころの問題」といい、「日本人はみな断罪されるべきだ」という。「差別の事実」を認めなければ次のステップに進めないともいう。でも、基地が沖縄に集中しているのは、差別被差別の問題とは違う。人権思想とも関係はない。歴史と宗教と既得権とエスタブリッシュメントの都合にしばられ て苦悩が続くパレスチナの問題とも共有する部分は少ない。知念ウシさんの主張は、あえていわせてもらえば、近代化と中央集権化のプロセスで犠牲となった亡霊たちの思想だ。亡霊たちの思想では、最初から前に進めないことがわかっていながら、知念ウシさんはこの10年余り、同じ主張を繰り返している。池澤さんを差別主義者と涙ながらに非難しながら、差別の時代の亡霊たちを呼び戻そうとしている。陳腐で出口のない「沖縄民族主義」を、ポストコロニアリズムの時代の正義と勘違いしている。

3.池澤夏樹さんは知念ウシさんに負けたのか

池澤さんが沖縄を離れていったホントの理由は知らない。こうした批判がなくても出ていく段取りだったのかもしれない。だが、人格すら否定するような批判は、やはり許されないのではなかろうか。

沖縄に居住しながら、半ば旅行者のような気分で過ごす一方で、沖縄在住の代表的な小説家・文化人として、池澤さんがさまざまな発言をしていたのは知っている。そのことの功罪はある。「ぼくだったら、池澤さんのようにはしない」と思う場面もたくさんあった。

あまり良いことばではないが、池澤さんはちやほやされていたのだ。ちやほやしたのはおもに沖縄の、池澤さんの周りに群がっていた人たちである。ちやほやされる側もちやほやする側も、自分たちの置かれている関係性がぼやけて見えなくなってしまうときがある。ついつい出てきたことばが、不用意だったり、無思慮だったりということも起こってしまう。

知念ウシさんが問題としている池澤さんのことばは、そういう類のものだ。知念ウシさんは、池澤さんの意識のなかにある植民地主義的・差別主義的な部分が露出したというが、「ちやほや」の積み重ねが招いた結果に過ぎない。沖縄でなくとも、(それがたとえば北海道や島根であっても)いくらでも起こりうることだ。池澤さんはたまたま居住先として沖縄を選んだが、 沖縄に惹かれない「日本人」も山ほどいる。だから、池澤さんは日本代表でもない。

池澤さんにも表現などで思慮を欠いた点はあったろう。だが、知念ウシさんの批判は、池澤夏樹という「日本人大作家」を日本代表として断罪することが目的だった。しかも、誰もが反論しにくい「こころの問題」を持ち出し、思考停止させることが知念ウシさんの狙いだ。「相対知」を求める池澤さんは、「絶対知」を求める知念ウシさんと同じ土俵に上がる必要もなかったはずだ。

ぼくがこういう批判を繰り返されたら(実際に知念ウシさんは池澤批判を繰り返した)、沖縄にはもう住む気になれない。「もう知るか、バカヤロー」といって出ていくだろう。出ていけば出ていくで罵倒されるだろうが、いったん土地を離れてしまえば罵倒は聞こえない。

一方で、知念ウシさんの主張やその流儀には抵抗しつづけるだろう。少なくとも知念ウシさんを相手に自己批判したり、同調したりすることはない。それが「相対知・冒険知」に対する仁義である。

ところが、池澤さんの上述の復帰コラムは、知念ウシさんの主張をトレースしているようにしか見えない。「だから基地に対しては差別だと怒る。基地は早々にお持ち帰りいただきたい。それが沖縄の人々の40年目の本音だろう」という結論部分など、知念ウシさんの受け売りだ。池澤さんは知念ウシさんに批判され、自己批判したのだろうか。

池澤夏樹さんが、排他的な沖縄民族主義思想の「ユタ」である知念ウシさんの降霊術を助けている姿など見たくなかった。相対知・冒険知の自殺である。残念きわまりない。

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批評.COM  篠原章
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